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日朗の土牢と光則寺

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1260年(文応元年)、 日蓮 は、長谷にあった宿谷光則の屋敷を訪れて、政治や宗教のあるべき姿を著した『立正安国論』を 北条時頼 に渡してくれるよう光則に依頼します。 『立正安国論』は光則によって 時頼 に提出されますが、 日蓮 の献策は受け入れられませんでした。 その後、多くの弾圧を受けながらも、世の中の正道を説き続けた 日蓮 は、1271年(文永8年)9月12日逮捕され佐渡流罪となります。 その時、弟子の日朗もともに捕らえられ光則がその監視の任に当たることになりました。 土牢 捕らえられた日朗は、 光則寺 裏山に残されている土牢に幽閉されたと伝えられています。 土牢御書碑 土牢の前には、 日蓮 が、幽閉されている日朗に書いた手紙の碑が建てられています。 佐渡流罪となった 日蓮 は、 弟子の日朗の身を案じて手紙を書いたといいます。 その手紙が『土牢御書』と呼ばれているものです。 『土牢御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれています。 日朗は、 日蓮 の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたといいます。 1274年(文永11年)2月14日、執権 北条時宗 は日蓮の赦免を決定します。赦免状を携えて佐渡に渡ったのも日朗でした。 日蓮 が赦免された年、日朗の監視役をしていた宿谷光則が自邸を提供し寺としています。 それが現在の 光則寺 です。開山は日朗です。 光則は、弟子の身を案ずる 日蓮 に感動し帰依したと伝わっています。 光則寺 カイドウ の寺として知られ、 本堂前のカイドウの古木は鎌倉市の天然記念物に指定されています。 https://www.yoritomo-japan.com/page136kosokuji.htm 日朗は、のちに 日蓮 の六老僧の一人に数えられ、池上本門寺の基礎を築いたといわれています。 その遺言によって松葉ヶ谷で荼毘にふされ、 お猿畑 に葬られています。 安国論寺 の荼毘所(左)と 法性寺 の廟所(右) 宿谷光則の墓 光則寺 https://www.yoritomo-japan.com/page136kosokuji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

悲運の皇子護良親王~鎌倉:人物と歴史~

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護良親王は後醍醐天皇の皇子で、11歳で 比叡山延暦寺 に入り「大塔宮」(おおとうのみや)とも呼ばれました。 大塔宮護良親王御遺跡の碑 (比叡山延暦寺) 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企てると、護良親王は還俗してこれに参加、六波羅探題を滅ぼすなど倒幕に貢献しました(参考: 鎌倉幕府の滅亡 )。 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が開始され、護良親王は征夷大将軍に任ぜられますが、 足利尊氏 と対立し、尊氏に訴えられ逮捕されてしまいます。 1334(建武元年)11月、護良親王は鎌倉に送られ、 足利直義 (尊氏の弟)によって東光寺に幽閉されます。 護良親王が幽閉されたとされる土牢 鎌倉宮 の本殿裏には護良親王が幽閉されたという土牢があります。 しかし、『太平記』の記述から、「土蔵のような建物に押し込められていたのではないか」と考えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1335年(建武2年)、鎌倉幕府滅亡後、信濃に逃れていた得宗 北条高時 の遺児時行が諏訪頼重に担がれて挙兵します( 中先代の乱 )。 鎌倉を守っていた 足利直義 は敗れて三河に逃れますが、鎌倉を出る際、淵辺義博に命じて護良親王を殺害させています。 伝えられている話では、親王は義博の刀を噛み折り、死んでもなお放さなかったことから、恐れをなした義博は親王の首を捨てて逃げたといいます。 護良親王墓 捨てられた親王の首は、 理智光寺 の住職によって、 鎌倉宮 の東にある山の上に葬られたと伝えられています。 鎌倉宮 明治2年に創建された神社です。 護良親王が幽閉されたという東光寺があった場所と伝わっています。 明治天皇が護良親王を祀るために自ら創建した神社です。 東光寺は護良親王が殺害されたことで廃寺となったといわれ、その本尊薬師如来像は行基作で、大町にある 薬師堂 に安置されているものがそれだと伝えられています。 村上義光 護良親王の忠臣です。 吉野城を拠点として幕府軍と戦っていた護良親王は、幕府軍に攻められ最期のときを覚悟したといいます。 しかし、村上義光は親王を落ち延びさせることを考え、親王の鎧を着て親王の身代わりとなって自刃したと伝えられています。 村上義光は 鎌倉宮 の境内社「村上社」に

宋に憧れた源実朝

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1216年(建保4年)6月、 東大寺 再建に貢献した宋の 陳和卿 が鎌倉を訪れ 源実朝 に対面します。 陳和卿 は、「将軍はその昔、宋の医王山の長老であり、私はその弟子でありました」と述べたそうです。 実朝 は以前夢に現れた高僧が同じ事を言っていたのでそれを信じたのだといいます。 1216年(建保4年)11月24日、 実朝 は急に渡宋を思い立ちます。 そして 陳和卿 に命じて唐船を建造させることにします。 船玉神社 (藤沢市大鋸) 渡宋のための船の用材は、藤沢市大鋸の辺りから切り出されたと伝わっています。 船玉神社 は、旧鎌倉道沿いにある神社。 由比ヶ浜海岸 船は海岸で造られました。 そして、1217年(建保5年)4月17日に完成します。 しかし、何故か海に浮かぶことができず 実朝 の夢は絶たれました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 渡宋計画は失敗に終わりましたが、実朝はその憧れからか、宋の能仁寺より 仏舎利 を請来しています。 その仏舎利は 勝長寿院 に安置された後、自らが創建した 大慈寺 に納めました。 現在は 円覚寺 塔頭 正続院 にある 舎利殿 に納められています。 大慈寺跡碑 鎌倉十二所の 明王院 の東側には、1212年(建暦2年)、 実朝 が父 頼朝 への感謝のために建てたという 大慈寺 がありました。 舎利殿 鶴岡八幡宮のビャクシン 鶴岡八幡宮 若宮の横のビャクシンの古木は、実朝が宋から苗を取り寄せて植えたものと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 何故、 実朝 は宋に憧れたのでしょう? 実朝 は異例な昇進を続けていました。 後鳥羽上皇による「官打」(かんうち)という説もあります。 「官打」というのは過分な官職を与えて不幸にするという意味をもっています。 大江広元 が昇進を急ぐ 実朝 を諫めると、「源氏の正統はこの実朝で終わりだから、せめて高官にのぼり源家の名をあげたい」といってそれを退けたといいます。 この国にいることが嫌になったのか・・・ それとも宋に渡る他の意味があったのか・・・ 謎のままです。 出来上がった船が進水できなかったことも不思議な話です。 その後の実朝

大江広元の墓

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源頼朝墓 の東隣の山の中腹には、二代執権 北条義時 の法華堂跡とされる平場があります。 その奥の階段を上ると鎌倉幕府で政所別当を務めた 大江広元 の墓とされる五輪塔があります。 この石段を上がると 北条義時 の法華堂跡です。 灯籠は、1858年(安政5年)に建てられたもので、毛利家の家紋「一文字三つ星」が入っています。 一文字三つ星 大江広元 の四男季光は、戦国時代、中国地方を制覇した毛利氏の祖にあたります。 「一文字三つ星」は毛利氏の家紋です。 墓への石段 北条義時 の法華堂跡の奥にある石段です。 左側の鳥居のある石段を上がると 大江広元 と、その子毛利季光の墓があります。 右側は薩摩島津氏の祖島津忠久の墓への石段です。 大江広元墓 大江広元 は式部少輔大江維光の子です。 源頼朝 は1184年(元暦元年)、京より広元を招きます。 そして公文所(のちの政所)の別当に任じています。 毛利季光墓 島津忠久墓 大江広元 の墓の左側には子季光の墓が並んでいます。 広元 の墓は1823年(文政6年)に建てられたと伝えられています。 季光の墓は、 鶴岡八幡宮 西の鶯ヶ谷にあったものが大正10年に移されたと伝えられています。 広元 と季光の墓の右側には、島津忠久の墓があります。 忠久は 源頼朝 の子ともいわれています。 現在の墓は、1779年(安永8年)に島津重豪が 頼朝墓 と一緒に整備したものです。 ~胡桃山にあるもう一つの広元の墓~ 伝大江広元墓 明王院 の裏山を上がっていくと大江広元の墓とされる五層塔があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源義経 の 腰越状 は 広元 あてに書かれていました。 守護・地頭の設置は 広元 の献策によるもといわれています。 梶原景時 の弾劾状は 和田義盛 らに強迫された 広元 が 源頼家 に提出しました( 梶原景時の変 )。 源実朝 は公暁に襲われた際「広元やある」と言ってこの世を去ったといいます。 承久の乱 では 広元 が出撃を主張しました。 源頼朝 ・ 北条義時 ・ 北条政子 らとともに鎌倉幕府の基礎を築いた 広元 は、1225年(嘉禄元年)に亡くなります。

禅~自身で開く悟り:鎌倉新仏教~

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禅は、仏教の開祖釈迦から数えて28代目にあたる達磨大師がインドから中国に伝えたといわれています。 日本で禅が広まったのは鎌倉時代です。 壽福寺 我が国に禅の種をまいたのは臨済宗開祖の 明庵栄西 です。 栄西は 比叡山延暦寺 で天台宗を学んだ後、宋に渡り臨済禅を修めますが、京都で迫害を受け、1199年(正治元年)に鎌倉へ下向します。 しかし、鎌倉でも天台宗や真言宗が信仰されている時代でしたので、天台宗の僧として信仰されていました。 1200年(正治2年)、 北条政子 が創建したという 壽福寺 は栄西を開山に迎えますが、天台・真言・禅の三宗兼学の寺院でした。 建仁寺 1202年(建仁2年)、二代将軍 源頼家 が建てたという京都の 建仁寺 も同じく三宗兼学でした。 道元鎌倉御行化顕彰碑 我が国曹洞宗の開祖道元は、 栄西 の弟子明全に師事し、明全とともに宋に渡って曹洞禅を修めました。 1248年(宝治2年)に五代執権 北条時頼 に招かれて寺院建立を要請されますが、権力者に媚びることを嫌った道元は、それを断って越前永平寺に帰ったといいます。 建長寺 鎌倉時代も中頃になると、これまでの旧仏教から離れ、新しい文化を生み出そうとする気運が高まってきます。 そして、中国では宋が衰え元が勢いを増す中、宋から日本に渡ってくる禅僧が多くなってきました。 建長寺 開山の 蘭渓道隆 もその一人で、坐禅によって悟りを開くという教えが武士の気風に合い、禅信仰(臨済宗)が盛んになります。 鎌倉武士の間に広まった禅宗は、京都の貴族の間でも広まり、文学、美術などの禅文化を生み出しました。 大空に浮かぶ雲や流れる水のように。 「行雲流水」 ・・・ 深く物事を執着せずとらわれることのない心。 諸国を修行してまわる禅僧をたとえる言葉としても用いられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

妙本寺のカイドウ2011

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評論家小林秀雄と詩人中原中也は、同じ女性をめぐって・・・ 祖止堂前のカイドウの下で語り合ったといいます。 現在はそれから数えて三代目の木になっているそうです。 ~小林秀雄の『中原中也の思ひ出』より~ 花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。 妙本寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043myohonji.htm 鎌倉三大カイドウ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/kaido.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

東日本大震災復興支援「流鏑馬」~鶴岡八幡宮~

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~天長地久 鎌倉から~ 毎年4月の 「鎌倉まつり」 では、 鶴岡八幡宮 で 「流鏑馬」 が奉納されています。 今年(平成23年)の 「鎌倉まつり」 は中止となりましたが、東日本大地震による被害を受けた方々の支援のために、 社団法人大日本弓馬会 の皆さんによる武田流「流鏑馬」が奉納されました。 第一の的の前には・・・、 福島県郡山市から植樹された 「静桜」 が咲いていました。 被災地復興支援の募金活動 午後一時に 出陣! まずは修跋所でお祓いです。 ~鏑矢奉献と願文奏上の儀~ =  舞殿  = 奉行と射手が昇殿し儀式が執り行われます。 諸役は舞殿の前に並びます。 ~そして、天長地久の式~ 「天長地久」とは ・・・天地が永久であるかのように物事がいつまでも続くこと。 天下泰平、五穀豊穣、万民救済を祈念する儀式です。 左に3回、右に2回、馬を乗り回し、天と地に対し満月に弓を絞ります。 天に・・・ 地に・・・ ~馬場入り~ 本日は特別に、 流鏑馬馬場 に設けられた三つの的の前で、 「天長地久の式」 が行われました。 ~ 騎  射 ~ 鎌倉市観光協会会長、鎌倉市長の挨拶の後、騎射がはじまりました。 的を射ない足慣らしのための 素馳 (すばせ)が行われてから、的を狙う「奉射」と「競射」が行われます。 狙う的は三種類! 式の的(三重丸の的)・板小的・土器三寸の的 式の的 初めは三重丸が描かれた式の的が馬場に建てられます。 板小的 次の的は板の的。 命中したときに木が裂ける音がいい音です 式の的と板小的への「奉射」が数回行われた後、「競射」が行われます。 「競射」は「奉射」を行った射手の中から成績の良かった者が選ばれて行われます。 土器三寸の的 競射に用いられるのは「土器三寸の的」です。 土器を二枚を合わせて、中に五色の切り紙を入れて張り合わせたもので、 命中すると土器が砕け花吹雪のようになります。 土器三寸の的に命中した瞬