別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2010年11月30日火曜日

御所五郎丸の墓

横浜の西区御所山町には、御所五郎丸の墓と伝わる五輪塔があります。

御所五郎丸は、「曾我兄弟の仇討ち」のときに活躍した武将です。

「曾我兄弟の仇討ち」というのは、1193年(建久4年)に源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった事件です。

十郎祐成と五郎時致の兄弟が、父の敵工藤祐経を見事討ち取りました。


ランドマークタワーが見える下町の路地にあります。
京浜急行「戸部駅」から徒歩5分程度でしょうか。



これが御所五郎丸の墓です。
御所山という地名は、この墓があるから付けられたといわれています。

御所五郎丸は、曾我兄弟の仇討ちの際に、
源頼朝の寝所に近づいた曾我五郎時致を、
女装をした五郎丸が捕らえたとして知られています。
女装するとは「卑怯である」として罰せられたとも伝えられています。
一方で、曾我兄弟を工藤祐経の寝所に案内したのが、
御所五郎丸であるともいわれています。





御所五郎丸墓:https://www.yoritomo-japan.com/gosho-goroumaru.htm

御所五郎丸屋敷跡:https://www.yoritomo-japan.com/page139gosho-goroumaru.htm

相模の武将「曾我兄弟」:https://www.yoritomo-japan.com/soga.htm


鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

弘明寺観音~横浜市南区~

横浜市南区にある弘明寺は、板東三十三ヶ所の十四番札所に数えられている観音巡礼の聖地です。

弘明寺かんのん通り

横浜市営地下鉄(ブルーライン)の弘明寺駅から弘明寺仁王門まで続く商店街です。

横浜国立大学の附属中学校

「弘明寺かんのん通り」の県道21号線を挟んだ反対側です。

古い校舎は横浜市の文化財に指定されているそうです。

県道21号線(横浜鎌倉線)は、鎌倉街道と呼ばれています。

「下の道」と呼ばれる古道は、弘明寺門前を通過していたものかも・・・?


仁王門

「弘明寺かんのん通り」を抜けると仁王門です。




身代地蔵

石段の途中にあるお地蔵さま。

京浜急行が会社設立100周年を記念して、人々の病気平癒を祈願するために奉納した地蔵像です。

多くの方々が参拝し祈願しています。

京浜急行の「弘明寺駅」は弘明寺の裏にあります。


本 堂

弘明寺は、721年(養老5年)、インドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が開創したと伝わる高野山真言宗の寺です。

横浜市最古の寺院といわれています。

その後、行基によって観音像が安置されました。

本尊十一面観音は「鉈彫」という技法の像で、国の重要文化財に指定されています。


七つ石

善無畏(ぜんむい)三蔵法師が陀羅尼(仏教における呪文)を書写し、結界を立てたと伝えられる霊石。 


梵鐘

江戸神田の西村和泉守藤原政平の作。

川崎大師の梵鐘も同人の作。

1798年(寛政10年)、阿闍梨秀光が願主となって再々造したもの。

横浜市の有形文化財。


大聖歓喜天

全国行脚の途中の弘法大師が、不思議な力を感じて双身歓喜天を彫って安置したと伝えられています。


木造黒漆花瓶

「亜」という文字の形をした花瓶。
ヒノキ材をろくろで挽いて成型した四つの部分を組み立てたもの。
横浜市指定有形文化財。


北条政子の伝説~化粧の井戸~

尼将軍化粧の井戸

井土ヶ谷の乗蓮寺にある井戸です。

源頼朝一行が弘明寺に参詣した際、北条政子が化粧するための井戸がなかったので、この井戸が使用されたとのことです。

乗蓮寺には政子自身が彫ったという尼将軍坐像や、政子のお手植えとされるカヤの古木があります。

乗蓮寺

カヤの古木

~鎌倉幕府の鬼門に創建された神社~

若宮八幡宮

「弘明寺かんのん通り」を戻って、横浜鎌倉線を蒔田方面に歩くと、若宮八幡宮の道標があります。

道標の建てられた路地に入っていくと若宮八幡宮があります。

源頼朝が幕府の鬼門にあたるこの地に創建したと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉手帳


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川崎大師を参詣

高野山薬王寺、成田山新勝寺とともに関東三本山として知らる「川崎大師」は、正式名称を金剛山金乗院平間寺といいます。


京急「川崎大師駅」
現在の京浜急行電鉄(京急)は、
川崎大師への参詣客を運ぶために開業した「大師電気鉄道」が基になっています。

川崎大師駅の南口
まだ9時ちょっとすぎですので、ほとんどの店が開店前です。

仲見世
トントコという飴切りの音で知られている通りです。
そういえば、鎌倉の小町通りにもあったような・・・。
こちらも、開いている店が少ないです。

大山門
仲見世を過ぎると大山門。
四方に四天王像が安置されています。
(京都の東寺の四天王像を模刻したものということです。)

本 堂
無実の罪をきせられ、
流浪のあげく川崎に辿り着いた平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、
夢のお告げによって弘法大師の尊像を海中から引き上げました。
兼乗は、その尊像を浄め、草庵を建ててその供養を怠りませんでした。
その信仰のおかげで、罪が晴れて生国の尾張国に戻ることができたといいます。
寺を建てたのは、高野山の尊賢という僧で、本尊は「厄除弘法大師」です。
寺の名称は、兼乗の姓「平間」に由来しています。

八角五重塔
五重塔の朱とイチョウの黄がきれいです。



遍路姿の弘法大師像
弘法大師は、中国唐から真言密教を伝えた高僧です。
筆の達人としても知られ、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆に数えられています。
密教寺院では「護摩修行」が行われますが、
「護摩」には「焚く」とか「焼く」という意味があって、
仏の智慧の火で煩悩を焼き尽くす儀式なのだそうです。

不動堂

不動門

経蔵

薬師堂


江戸消防祈念碑

しょうづかの婆さん




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2010年11月28日日曜日

大船の古道(常楽寺~熊野神社・多聞院~切通~六国見山)

大船は、粟船と呼ばれていた所で、建長寺の根本といわれる臨済宗建長寺派の粟船山常楽寺があります。

そして、県道横浜鎌倉線を越えると、玉縄北条氏の家臣甘糟長俊によって勧請されたたいう熊野神社と、山ノ内瓜ヶ谷にあった観蓮寺を前身とする多聞院があります。

さらに、円覚寺の裏山六国見山を散策コースに入れる必要がありそうです。


常楽寺

常楽寺は、三代執権北条泰時が建てた粟船御堂を前身としています。

本堂の裏に泰時の墓があります。

裏山には、源頼朝の娘大姫の悲恋の相手、木曽義高の墓(木曽塚)があります。



開山の蘭渓道隆は、建長寺を開く前にこの寺に入っていたことから、常楽寺は「建長寺の根本」と呼ばれています。

イチョウの古木は道隆のお手植えとされ、秘仏の文殊菩薩には道隆の伝説が残されています(参考:文殊祭)。





県道を越えてこのT字を左に行くと熊野神社多聞院です。

庚申塔
多聞院の門前の庚申塔です。

熊野神社

庚申塔の前の鳥居を抜けて石段を上がると、甘糟長俊が勧請したという熊野神社です。

勧請した木造の神像が現存しているそうです。





多聞院

山ノ内瓜ヶ谷にあった観蓮寺を前身としています。

甘糟長俊が、この地に移したそうです。そして、隣接する熊野神社の別当寺となりました。





甘糟家

近くには甘糟長俊を先祖とする甘糟家が現存しています。

甘糟家は、玉縄北条氏に仕えた一族です。



~六国見山への道~

大船側からの六国見山への主な道を三つ紹介いたします。


この隧道は熊野神社の下を通っています。

ここを抜けると白山神社称名寺がある今泉方面です。

この隧道の上を通る切通があります。

一般的なのかどうか知りませんが、「大船の切通」と呼ばれているようです。

インターネット上の紹介ページでは、この道を「高野の切通」としているものもありますが、実際はどういうことになっているのでしょうか・・・?





こちらは、甘糟家の東側の大船高校との境界を上がる道。
「大船の切通」と合流します。


そして、これが一般的に「高野の切通」として紹介されている古道。



昔は、「山ノ内と六浦とを結ぶ尾根道だった」と鎌倉市のホームページは紹介しています。



~六国見山登山~

高野台の登山口
長窪(南口広場)からの登山口もあります。


10分から15分くらい山登りをすると山頂です。

六国見山とは・・・、安房・上総・下総・武蔵・相模・伊豆の六つの国を一望できたことから付けられた名です。



山頂の展望台正面の道を下りれば、もう一つの登山口の南口広場です。

南口広場の登山口


南口広場からは、大船の観音さまを見ながら、JR横須賀線の権兵衛踏切まで下りていけば、北鎌倉駅がすぐそこです。





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