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10月 23, 2022の投稿を表示しています

和田合戦の褒賞を固辞した北条泰時

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『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)5月5日、 和田合戦 の褒賞を受けた 北条泰時 でしたが、考えるところがあるといって御下文を 大江広元 に託して 源実朝 に返したのだといいます。 実朝 は何度も受け取るように伝えたのですが、固辞していたようです。 5月8日、御所に呼ばれた 泰時 は、 「 和田義盛 は、父 義時 打倒の挙兵をしたのであって、将軍に謀反を起こしたわけではありません。 私は父の敵と戦ったまで。 ただ、義盛の攻撃を防ぐために多くの御家人が戦いました。 褒賞は、それらの者に与えるべきであって、私が受けるものではありません」 と語ったのだと言います。 それでも 実朝 は褒賞を受け取るよう命じたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

日光山の弁覚にも褒賞~和田合戦~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)5月10日、日光山( 輪王寺 ・ 二荒山神社 )の弁覚が褒賞として鎮西土黒庄を手に入れました。 5月3日、弟子らを率いて 和田義盛 の反乱( 和田合戦 )に駆け付け、大町大路で中山行重を退けた功績によるもの。 源実朝 は、 「僧徒の身でありながら戦場へ赴いたことは、忠節の表れだ」 とし、 北条義時 を通じて感謝の言葉を伝えたのだといいます。 弁覚は、 「将軍様の長生きをお祈りしておりますので、呪いや祟りなどもその力で防ぎます。 ましてや姿形のある敵などには罰を与えなければなりません」 と申し上げたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 四本龍寺三重塔 (日光山輪王寺) 四本龍寺( 輪王寺 )の三重塔は、1241年(仁治2年)に 実朝 の菩提のために創建したのだという。 日光山輪王寺 源頼朝も祀られている! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

波多野忠綱と三浦義村の言い争い~和田合戦~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)5月4日、非難していた 法華堂 から東の御所( 北条政子 の御所)に移った将軍 源実朝 は、 西御門 で 和田合戦 で怪我をさせられた者と対面(およそ188人)。 合戦の調査・確認を行なった。 次に、勲功の大小を尋ねるのだが、波多野忠綱と 三浦義村 の主張に食い違いが・・・ 忠綱は 「米町と政所前での先陣」を主張し、 義村は 「米町の事については異論はないが政所前の合戦では自分が先陣」と主張して言い争いを始めてしまう。 北条義時 は忠綱を呼び寄せて 「この度の合戦での勝利は、 義村 が 和田義盛 を裏切ったことが大きい。 穏便に事を済ませてくれれば破格の褒賞は疑いない」 と諭すのだが、 忠綱は 「武士が戦場に向かうときは先陣を目指すもの。 弓馬に携わる者として一時の褒賞に心を奪われ、先々までの名誉を汚すことはできない」 と反論するので、将軍 実朝 の御前で真実を明らかにすることに。 義時 ・ 大江広元 ・二階堂行光が控える中、まず 義村 が 「 義盛 が襲来した時、義村は政所前を南に馳せ向い、矢を放ちましたが、塵一つとしてその前を飛んでいく物はありませんでした」 と主張。 すると忠綱は 「忠綱一人が先陣を切りました。 義村は我が子の経朝・朝定の後陣でした。 にも拘わらず、忠綱を見ていないとは、盲目なのでは」 と主張するので、合戦に参加した戦士たちから話を聞くことに。 その話によると・・・ 先陣を切ったのは「赤皮威の鎧を着用し、葦毛馬に乗馬した者」だったのだという。 それは忠綱のこと。 葦毛馬は 義時 から拝領したもので「片淵」と呼ばれていたのだとか。 しかし・・・ 5月7日、忠綱の手柄については疑いのないところだが、褒賞については義村を盲目扱いしたため、子の経朝へ行われている。 西御門 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

2022龍口寺の竹灯籠~江の島の秋~

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今年は秋の開催となった 龍の口竹灯籠 。 約3000基が並べられます。 10月29日(土)・30日(日) 午後5時~午後8時 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

岐阜城は二階堂行政が築城したことに始まる?~鎌倉殿の13人~

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岐阜城 (稲葉山城)は、戦国大名の斎藤道三や織田信長が居城としたことで知られていますが・・・ 「 二階堂行政 が築いた砦を始まりとする」という伝承があるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

2022時代祭~京都三大祭~

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時代祭は、桓武天皇を祀る平安神宮の大祭。 1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して始められました。 葵祭、祇園祭と並ぶ「京都三大祭」のひとつ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ