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12月 4, 2022の投稿を表示しています

旧一条恵観山荘「紅葉の小径」2022/12/07

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御家人たちの前で演説した北条政子(承久記)~承久の乱~

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『吾妻鏡』では、 北条義時 追討の 宣旨 が鎌倉に届くと、 北条政子 は動揺する御家人に対し、 安達景盛 に代読させて 源頼朝 の恩顧を訴えたことになっていますが・・・ 慈光寺本『承久記』によると・・・ 後鳥羽上皇 が 武田信光 ・ 小笠原長清 ・ 小山朝政 ・ 宇都宮頼綱 ・長沼宗政・足利義氏・ 北条時房 ・ 三浦義村 に北条義時追討の 院宣 を下したことを知った 政子 は、こう演説したのだといいます。 「皆よく聞きなさい。 私ほど若いころから物思いの絶えない者はいません。 姫御前(長女の 大姫 )・大将殿( 源頼朝 )・左衛門督殿(長男の 頼家 )・右大臣殿(次男の 実朝 )に先立たれ、四度もの辛い思いをしてきました。 今度、権大夫(弟の 義時 )が討たれることとなれば、五度目の悲しみを味わうことになってしまいます。 「女人五障」とはこの事なのでしょうか。 皆は、降る日も照る日も都での内裏大番を三年間務め、おおきな負担を強いられてきました。 それを右大臣殿( 実朝 )が朝廷と交渉して軽くしてくれました。 今、皆が京方について鎌倉を攻めることは、大将殿( 頼朝 )と右大臣殿( 実朝 )の御墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの。 御恩を受けた者がすることではありません。 私が深山に隠棲して、流す涙のを不憫とは思いませんか。 皆、京方につくか、鎌倉方につくか、有りのままに仰せられよ」 この演説で、 武田信光 が鎌倉に味方することを表明すると、異議を唱える者はなかったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条政子が御家人たちに訴えた源頼朝への恩(吾妻鏡)~承久の乱~

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1221年(承久3年)5月14日、 後鳥羽上皇 が挙兵。 翌日には 北条義時 追討の 宣旨 が発せられます( 承久の乱 )。 鎌倉には5月19日にその報がもたらされ、御家人らの動揺は隠せない状況に。 そんな御家人らに尼将軍・ 北条政子 は、 安達景盛 に代読させ 源頼朝 の恩顧を訴えました。 『吾妻鏡』によると・・・ 「故右大将軍( 頼朝 )が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いもの。 感謝の気持ちは浅くないはず。 しかしながら、反逆者が事実でない事を訴え、道理からはずれた院宣が発せられた。 名声を大切にしようと思う者は、 藤原秀康 ・ 三浦胤義 を討ち取り、源氏三代の将軍( 頼朝 ・ 頼家 ・ 実朝 )が遺したものを最後まで守りなさい。 ただし、 後鳥羽上皇 のもとに参ろうと思う者は、今すぐ申し出なさい」 これを聞いた者たちは、命を懸けて恩に報いる決意を返答したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝が匿われていたという鳳来寺~新城市~

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鳳来寺 は薬師如来の霊場。 1159年(平治元年)12月、 平治の乱 で 平清盛 に敗れた 源頼朝 が匿われた寺なのだとか。 1185年(文治元年)、頼朝は、その恩に報いるため、 梶原景時 に命じて三重塔をはじめとする諸堂を建立したのだと伝えられています。 鳳来寺 の参道石段は1425段。 頼朝の寄進とも。 鳳来寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ