別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




ラベル その他 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル その他 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年4月15日土曜日

三々九手挟式~伊豆山神社例大祭~


「三々九手挟式古来」(さんざんくたばさみしき)は、古来、正月4日の「弓始め」のときに行われていた儀式。

源頼朝が信仰した伊豆山神社例大祭で奉納されています。

※2023年の例大祭は神事のみ。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


烏帽子・直垂(女性は水子)姿の射手が前弓・後弓の2組に分かれ、1人2本ずつの矢を順番に射ます。

最後に各組の大将が射て合計点数を競い合います。


蟇目の儀

矢を射放つと風を切る音を発します。

そのため、魔障を退散させる儀式として伝えられています。



的の一辺の長さは・・・

前弓の的は一辺八寸(24㎝)
後弓の的は一辺九寸(27㎝)



的は杉又は桧の板的を用いられます。

前弓の板的の裏には十文字の切れ目が入り、後弓の板的の裏には三寸毎の井桁(いげた)の切れ目が入っています。

この板的を串に挟んで立てて射抜くことから、井桁の数より「三々九の挟物」といわれています。

的までの距離は通常20メートル。



前弓(先に射る者)

後弓(後に射る者)

大将

的中した回数で勝負が決まります。
(大将の的中は2本と数えられます。)


結果が発表され儀式は終わります。


伊豆山神社


伊豆山神社例大祭







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

伊豆山神社


熱海と源頼朝の伝説

湯河原・真鶴の源頼朝伝説

伊東で源頼朝伝説


源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


伊豆・箱根の二所詣


よりともジャパン.com


2022年12月14日水曜日

北条泰時出陣~承久の乱~




1221年(承久3年)5月15日、幕府打倒の挙兵をした後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を発します。

これに対し、幕府では、北条政子が「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めます。

御家人らが参集した会議では、足柄峠と箱根山に関を設けて朝廷軍を迎え撃つという作戦も出されますが、大江広元が上洛すべきと主張。

さらに、北条政子は「すみやかに上洛せよ」と命じます。


そして・・・

1221年(承久3年)5月22日早朝、北条泰時が18騎で出陣。

何故、たった18騎だったのか?

それは、その前日に、こんなやりとりがあったからのようです。

「上洛することを決定してから、日が経ち過ぎたので、いろんな異議が出てくる頃です。

皆の気が変わる前に、総大将の泰時さまが一人でも出陣すれば、関東の御家人は悉く、雲が龍に従うが如く従ってくるでしょう」

大江広元が主張したから。

このことを政子三善康信に問うと、

「まず、京へ向けて出陣するべき」

と答えたのだといいます。


それを受けた義時は、直ちに泰時に出陣するよう命じています。

この夜、泰時は稲瀬川の藤沢清親の屋敷に泊まったのだとか。


泰時の出陣によって、関東の御家人は悉く京へ向けて出発。

その数は19万騎に達したそうです。


『吾妻鏡』より。




承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~

宇治川の戦い~承久の乱~


瀬田の合戦~承久の乱~








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


北条泰時

北条時房


後鳥羽上皇


北条義時の最期

北条政子の最期


よりともジャパン.com


2022年11月7日月曜日

国の伝統的工芸品:鎌倉彫


源頼朝が幕府を開くと、鎌倉は政治・文化・経済の中心として栄えます。

多くの寺院が建立され、仏像の造立もさかんに行われました。

鎌倉に集まった仏師たちは仏像だけではなく、光背・台座・香合・食器・燭台などの仏具も制作していました。




「鎌倉彫」は、宋の工人陳和卿(ちんなけい)が持ってきた彫漆工芸を真似て、運慶の子康運が仏具を作ったのがはじまりと考えられています。

彫漆工芸は、漆を何百回も塗り重ねた漆の層に彫刻を施すもので、手間も時間もかかり費用もかかりました。




そこで、木に彫刻してから、その上に漆を塗るという方法が考え出されます。

初めは宋の影響が残されていましたが、次第に日本独自の工芸品へと変化していきます。それが今に伝わる「鎌倉彫」です。

建長寺の「須弥壇」や円覚寺の「前机」は、鎌倉彫の原型とされています。


建長寺須弥壇

円覚寺前机


室町・江戸時代になると茶道の流行によって、仏師たちは茶道具・文具・食器などの調度品を鎌倉彫で製作するようになり、宮廷や武家以外の町人の生活にも広がっていきました。

江戸時代の『三条西実隆日記』には、「鎌倉物」と記されています。

明治になると神仏分離令が出され、それに伴う廃仏毀釈の運動により、多くの仏師が職を失ってしまいます。ついには、仏師の家は後藤家と三橋家のみとなってしまいました。


鎌倉彫再興碑


後藤家と三橋家は、仏師としての副業であった鎌倉彫を本業とすることにします。

そして、パリ、ウィーン、アメリカで開催された万国博覧会に鎌倉彫を出品するなど、新時代の鎌倉彫制作に努力します。

1889年(明治22年)、横須賀線が開通し、別荘地や保養地として栄え観光客も増えると、鎌倉彫の需要も多くなり、愛好されるようになりました。

第2次世界大戦によって打撃を受けますが、徐々に復活し、1979年(昭和54年)には、全国で27番目となる伝統的工芸品の指定を受けています(神奈川県では初めての指定)。


鎌倉彫会館


1968年(昭和43年)、若宮大路沿いに開館しました。

1977(昭和52年)に小町大路沿いに開館した「鎌倉彫資料館」も、2005年(平成17年)に鎌倉彫会館内に移転しています。

鎌倉彫の展示や鎌倉彫教室が開かれています。


博古堂

鶴岡八幡宮の前にある後藤家の店舗です。


陽堂

由比ヶ浜大通りにある三橋家の分家大石家の店舗です。








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


よりともジャパン.com


2022年6月10日金曜日

源頼朝の富士巻狩りと曽我兄弟の仇討ちをめぐる!~富士宮市~


井出家の高麗門と長屋


井出氏は中世に駿河国富士郡井出郷を支配していた土豪。

1193年(建久4年)5月15日、巻狩りを催すため富士裾野に到着した源頼朝は、井出館を宿営の場所にしたのだと伝えられています。


狩宿の下馬桜


井出家の前の桜は、源頼朝が馬を繋いだというシロヤマザクラ。

駒止めの桜とも呼ばれています。


白糸の滝

白糸の滝は世界文化遺産「富士山」の構成資産。


この滝を見た頼朝は・・・

「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」

と詠んだのだとか。


おびん水

白糸の滝の上のあるお鬢水は、源頼朝が鏡のような美しい水面に顔を映して鬢のほつれを直したという清水。

おびん水

江戸時代には富士講の霊場となりました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝が催した富士裾野の巻狩りでは、曽我兄弟の仇討ち事件が発生しました。


音止の滝

白糸の滝の隣にあるのが音止の滝

曽我兄弟の伝説が残された名瀑。


曽我の隠れ岩

曽我兄弟が討ち入りの相談をしたという場所。

曽我の隠れ岩

この岩の東には工藤祐経の墓があります。


工藤祐経の墓

曽我兄弟に討たれた工藤祐経の墓と伝えられています。

工藤祐経の墓

ここは、富士裾野の巻狩りで工藤祐経の陣所があったという所。


曽我兄弟の墓

工藤祐経の陣所に討ち入り、見事に父の仇を討った曽我兄弟でしたが・・・

曽我兄弟の墓

兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれ、弟の五郎時致は捕えられて処刑されます。

曽我兄弟の墓がある地は十郎祐成が討たれた所と伝えられています。


曽我八幡宮

曽我八幡宮は、1197年(建久8年)、源頼朝畠山重忠を遣わして創建させたという社。

曽我八幡宮



富士裾野の巻狩り

曽我兄弟の仇討ち

巻狩りと仇討ち

白糸の滝

歴史めぐり源頼朝








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


よりともジャパン.com


検索

Translate