源頼朝と鶴岡八幡宮
1180年(治承4年)8月、伊豆に流されていた源頼朝は、 源氏再興の挙兵 をします。 伊豆国の目代 山木兼隆 を討った頼朝は相模国へ進軍しますが、 石橋山の戦い に敗れ、 真鶴 から舟で安房国に渡りました。 安房国 で再起した頼朝は、再び相模国を目指します。 そして、10月7日、鎌倉に入り、由比郷鶴岡にあった鶴岡八幡宮( 由比若宮 )を遥拝しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鶴岡八幡宮の遷宮~ 鶴岡八幡宮 は、頼朝の先祖 源頼義 が京都の 石清水八幡宮 を勧請したがその始まりで、鎌倉に入った頼朝が最初に行ったのは、鶴岡八幡宮の遷宮でした。 10月12日には小林郷北山へ遷し、しばらくの間の別当(長官)職には 走湯権現 (伊豆山権現)の專光坊良暹が置かれ、事務は 大庭景義 が命じられています。 『北条九代記』によると、 元の場所から新たな場所へ移すことに神がどのように思われるか心配だった頼朝は、自らが神の前でおみくじを引くと「小林郷へ移るべき」という占いが三度も出たのだとか・・・。 1181年(養和元年)5月13日、前年遷宮を行った鶴岡八幡宮の仮の宮を建て直すため、 土肥実平 と 大庭景義 を奉行として材木の調達を開始。 武蔵国浅草の大工を呼んで7月8日から工事が始められ、7月20日には上棟式を迎え、8月15日には 梶原景時 を奉行として新造の正殿に御神体が納められました。 上棟式では、棟梁に与える馬を引く役を命ぜられた 源義経 が快く引き受けなかったため、頼朝の不興をかったと伝えられています。 📎源義経の大工の馬事件 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~参道の造営~ 1182年(養和2年)3月9日、 北条政子 が懐妊。 3月15日、頼朝は、政子の安産祈願のために 若宮大路 の造営にとりかかります。 若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して造営された鶴岡八幡宮の参道。 若宮大路 段葛 若宮大路の中央に一段高く造られたのが 「段葛」 。 若宮大路の造営と同じ時期に造られたものと考えられ、全国で唯一残っている遺構です。 現在は 二の鳥居 と 三の鳥居 の間に残されているのみですが、造営当時は 一の鳥居 まで通じていたのだといいます。