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7月 11, 2021の投稿を表示しています

錦の御旗

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錦の御旗は、1221年(承久3年)5月、 後鳥羽上皇 が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募った際に、10名の武将に授けたことが最初なのだといいます( 承久の乱 )。 東寺 それから650年後の1868年(慶応4年)正月の鳥羽・伏見の戦いでは 東寺 に錦旗が翻ります。 城南宮 鳥羽・伏見の戦いは、 城南宮 の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

巴御前の太刀「有綱」

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太刀 銘有綱 木曽義仲 に仕えた 巴御前 の太刀と伝えられています。 1184年(寿永3年)1月20日、 義仲 は 源頼朝 が派遣した 源範頼 と 源義経 に攻められ、近江国粟津で討たれました。 巴御前 は 義仲 討死の直前まで同行していたと伝えられています。 「太刀 銘有綱」は、 巴御前 が粟津から落ち延びる際に、手助けをしてくれた者に礼として置いていったものと伝えられています。 有綱は伯耆国の刀工。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 木曽義仲の菩提寺 義仲寺 木曽義仲の墓 (義仲寺) 巴塚 (義仲寺) 鎌倉との繋がりを求めて。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

伏見広綱の屋敷を破壊した牧宗親

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『愚管抄』によると、牧宗親(まきむねちか)は、 北条時政 の若き妻(後妻 牧の方 )の父(妹とも)で、長年平頼盛に仕え、駿河国大岡牧の管理を任されていたのだといいます。 平頼盛の母 池禅尼 の弟藤原宗親と同一人物ともいわれ、伊豆に流された 源頼朝 が 北条時政 の監視下に置かれたのは 池禅尼 の意向からという説があります。 『愚管抄』には「武者ニモアラズ」と記されているが、『吾妻鏡』には「武者所」と記されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~伏見広綱の屋敷を破壊~ 1182年(養和2年)11月10日、 北条政子 の命により、 源頼朝 の浮気相手の 亀の前 が匿われている伏見広綱の屋敷を破壊。 翌日、頼朝に呼び出された宗親は髻(もとどり)を切られてしまいます。 そして、11月14日、舅への仕打ちに怒った 北条時政 が一族を率いて 伊豆国 へ引き上げる騒動になりました。 ただ、時政の子 義時 は鎌倉に残っていたそうです。 鐙摺山 (葉山町) 頼朝が宗親は髻を切ったのは 鐙摺山 での出来事と伝えられています。 源頼朝の正妻 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

流人頼朝に仕えた伊東祐清

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伊東祐清は、伊豆に流された 源頼朝 の監視役 伊東祐親 の次男。 頼朝の乳母だった 比企尼 の三女を妻としていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝を助けた祐清~ 『曽我物語』によると・・・ 伊豆国流罪となった頼朝は、 祐親 が大番役で上洛している間に、祐親の三女・ 八重姫 と結ばれます。 やがて男児が誕生して千鶴丸と名付けられました。 しかし、大番役から戻った 祐親 は激怒し、千鶴丸を殺害。 八重姫 は、頼朝から引き離され、江間小四郎(小次郎)という者に嫁がされてしまいます。 さらに、祐親は、頼朝も討とうとしますが、祐清が頼朝に身の危険を知らせたことで、頼朝は 北条時政邸 に逃れることができたのだといいます。 祐清は、 北条時政 を烏帽子親としていました。 『吾妻鏡』によると・・・ 祐親 が頼朝を殺害しようとしたのは、1175年(安元元年)9月頃のこと。 祐清から知らせを受けた頼朝は、熱海の 走湯権現 に逃げ込んだのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~平家方についた祐清~ 1180年(治承4年)8月、頼朝が 北条時政 らの援助を受けて源氏再興の挙兵を果たします。 しかし、祐清は父祐親とともに平家方に付きました。 頼朝は、 石橋山の戦い で大敗を喫しますが、 真鶴 から 安房 へ渡って再起。 10月には 鎌倉入り を果たし、 富士川の戦い に臨みます。 『吾妻鏡』によると・・・ 10月19日、祐親と祐清が 天野遠景 に捕えられ、 三浦義澄 に預けられました。 伊豆にいた頃に祐清に助けられた頼朝は、祐清を呼び出して恩賞を与えようとしますが・・・ 祐清は、「父が捕えられているのに褒美などいただけない」として釈放を求めます。 その後、祐清は上洛したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~祐親が自害・祐清は死刑~ 『吾妻鏡』によると・・・ 1182年(養和2年)2月14日、 北条政子 の懐妊による恩赦で 三浦義澄 に預けられていた 祐親 が助命されることになりますが・・・ 祐親 は、これまでの所業を恥じて三浦邸で自害したのだといいます。 翌日、 堀親家 から祐親自害の報告を受けた頼朝は、祐清を呼んで、かつて自分を助