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弓矢の道の習わし:武田信光と小笠原長清~承久の乱~

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木曽川 『承久記』(慈光寺本)によると・・・ 東山道の大将軍は甲斐源氏の 武田信光 と 小笠原長清 。 軍勢が美濃国に到着したときのこと。 長清が 「現世は無常な所である。 いかがか武田殿」 と問いかけると信光は、 「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく それが弓矢の道の習わしである」 と返したのだとか。 恩賞をもらうために戦うのが武士。 負ける側についていても意味がない。 このような考えを持っていると予想していた東海道の大将軍 北条時房 は、 「大井戸・河合の渡河に成功したならば、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六ヶ国を与える」 という書状を信光と長清に送ったのだという。 すると、 信光と長清の東山道軍は、大井戸渡に布陣する京方2万騎を撃破したのだとか。 虚空蔵堂 (美濃加茂市) 合戦場の正確な場所は不明ですが、中山道太田宿(美濃加茂市)の虚空蔵堂辺りが北端と考えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条義時と大倉薬師堂の戌神の伝説

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覚園寺の戌神 『吾妻鏡』によると・・・ 1218年(建保6年)7月8日、 この日、左近衛将軍となった将軍 源実朝 の 鶴岡八幡宮 参拝に従っていた 北条義時 は、晩になって屋敷に戻ります。 すると・・・ 休息していた 義時 の夢の中に、薬師如来につき従う十二神将のうちの戌神将が現れます。 そして・・・ 「今年の将軍の参拝は無事であったが、来年の拝賀の日には供奉しないように」 と告げたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夢から覚めた 義時 は、このお告げをどのように考えてよいか判断しかねたようですが・・・ 翌日、大倉郷に御堂を建立して、薬師如来像を安置するように命じます。 これに対し、周囲の者は反対したようですが・・・ 義時 は、個人の負担で造営を開始したのだと伝えられています。 こうして完成した大倉薬師堂は、1218年(建保6年)12月2日に落成式が行われます。 導師は、 退耕行勇 。 本尊の薬師如来は、 運慶 によって彫られたものだったと伝えられています。 同日、 源実朝 は右大臣に任ぜられています・・・。 戌神 (辻の薬師堂) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

義時が泰時に語った戦の心構え~承久の乱~

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宇治川 (京都) 『吾妻鏡』によると、1221年(承久3年)5月22日、19万騎の兵で上洛を開始した幕府軍。 北条泰時 は東海道の大将軍として出陣。 『増鏡』によると、 北条義時 は泰時が出陣するにあたって、泣きながらこう語ったそうです。 「本来の志のとおりに清く死ぬべきである。 人に背を見せたなら、再び親の顔を見ることはないと思え。 今を限りと思え。 賎しい身分ではあるが、この義時は、主君に対してやましい心はまったくない。 だから、無駄な死に方はするな。 心を強く持ち、己に打ち勝つことができたなら、再びこの足柄山・箱根山を越えることができるだろう」 ただ・・・ 泰時 は、出陣の翌日には鎌倉に戻ったのだといいます。 それは、 後鳥羽上皇 自ら兵を率いてきた場合の対処方法を問うため。 義時は 「 後鳥羽上皇 に弓を引くなどあってはならないこと。 そのような場面となったら、兜を脱ぎ、弓の弦を切って、降伏するように。 そうでなく、 後鳥羽上皇 は都におられて、ただ軍兵だけをお遣わしなさったのであれば、命を捨てて千人が一人になるまで戦うように」 と答えたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

佐和山城は近江源氏・佐々木氏ゆかりの城だった。

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戦国期、石田三成の居城となったことで知られる 佐和山城 ですが・・・ 源頼朝 に仕えて近江国守護となった 佐々木定綱 の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉:紅葉・黄葉色づき情報!~源氏山公園~2022/11/17

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イチョウも色づいてきました。 紅葉は、そろそろ第一段目が見ごろとなってきそうです。 紅葉シーズンは椿も見ごろです。 葛原岡神社 葛原岡神社のイチョウは、まだ緑。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆