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下鴨神社の申餅~葵祭で供えられたはねず色の餅~

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申餅 下鴨神社 の参道にあるお休み処「さるや」さんの 申餅 。 「葵祭」 の申の日に神前に供えられたという「はねず色」の餅。 都人は「葵祭の申餅」と呼んでいたのだそうです。 葵祭 葵祭 は、 上賀茂神社 と 下鴨神社 の例大祭。 祇園祭 ・ 時代祭 とともに京都三大祭の一つ。 また、 石清水八幡宮 の例大祭(石清水祭)・ 春日大社 の例大祭(春日祭)とともに三大勅祭の一つ。 2023年は4年ぶりに「路頭の儀」が開催されます。 下鴨神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

弓馬四天王:甲斐源氏・武田信光

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石和八幡宮 (笛吹市) 武田信光 (たけだのぶみつ)は、 新羅三郎義光 を祖とする甲斐源氏5代当主。 父は武田氏初代の 信義 。 源頼朝 に仕えて活躍し、 小笠原長清 、 海野幸氏 、 望月重隆 とともに 弓馬四天王 の一人に数えられました。 石和八幡宮 は、信光が 鶴岡八幡宮 を勧請し、弓馬術の聖地として信仰された神社。 武田信光の宝篋印塔 (伊豆の国市: 信光寺 ) 伊豆の国市 の 信光寺 は信光が創建した寺院。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~弓馬四天王~ 『吾妻鏡』によれば、 1187年(文治3年)8月15日、 源頼朝 は 鶴岡八幡宮 で放生会を催します。 信光は、その時奉納された 流鏑馬 で射手に選ばれています。 これが鶴岡八幡宮の流鏑馬の起源となります。 1193年(建久4年)8月16日の流鏑馬では、 弓馬四天王 がそろって射手に選ばれています。 頼朝亡き後も活躍し、1221年(承久3年)の 承久の乱 では、東山道の大将軍として兵を率い、乱後には安芸国守護に任じられました。 ※安芸国守護に任じられた時期には諸説あるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 持国天と増長天 ( 東大寺大仏殿 ) 1194年(建久5年)、 源頼朝 は 東大寺大仏殿 の虚空蔵菩薩・如意輪観音と四天王像の造立を御家人に命じています。 持国天を造立したのが 武田信光 でした。 参考までに、従兄弟の 小笠原長清 が多聞天を造立しています。 これらの仏像は 運慶 とその一族によって造立されたものだったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 武田流流鏑馬 武田流流鏑馬 は、 武田信光 を祖とする安芸武田氏に伝えられた弓馬術。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

三々九手挟式~伊豆山神社例大祭~

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「三々九手挟式古来」(さんざんくたばさみしき)は、古来、正月4日の「弓始め」のときに行われていた儀式。 源頼朝 が信仰した 伊豆山神社 の 例大祭 で奉納されています。 ※2023年の例大祭は神事のみ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 烏帽子・直垂(女性は水子)姿の射手が前弓・後弓の2組に分かれ、1人2本ずつの矢を順番に射ます。 最後に各組の大将が射て合計点数を競い合います。 蟇目の儀 矢を射放つと風を切る音を発します。 そのため、魔障を退散させる儀式として伝えられています。 的 的の一辺の長さは・・・ 前弓の的は一辺八寸(24㎝) 後弓の的は一辺九寸(27㎝) 的は杉又は桧の板的を用いられます。 前弓の板的の裏には十文字の切れ目が入り、後弓の板的の裏には三寸毎の井桁(いげた)の切れ目が入っています。 この板的を串に挟んで立てて射抜くことから、井桁の数より「三々九の挟物」といわれています。 的までの距離は通常20メートル。 前弓 (先に射る者) 後弓 (後に射る者) 大将 的中した回数で勝負が決まります。 (大将の的中は2本と数えられます。) 結果が発表され儀式は終わります。 伊豆山神社 伊豆山神社例大祭 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

武田不動尊~武田信玄が刻ませた不動明王:恵林寺~

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武田不動尊 恵林寺 の 武田不動尊 は、 武田信玄 が自らを模刻させたという不動明王。 2021年(令和3年)の調査で、像内に銘文が発見され、京の仏師・康住が1572年(元亀3年)4月に造立したことが判明しています。 恵林寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆