源義朝像 (愛知県美浜町・法山寺) 源義朝は、河内源氏6代目。 1123年(保安4年)に誕生。 父は 源為義 。 母は藤原忠清の娘。 河内源氏は、本拠地は河内国古市郡壷井。 初代頼信、二代頼義、三代義家の活躍により「武家の棟梁」と称されますが、義家死後は一族の内紛などによって衰えてしまいます。 壺井八幡宮 大阪羽曳野市の 壺井八幡宮 は、 源頼義 の創建で河内源氏の総氏神として信仰された社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~東国下向~ そんな時代情勢の中に生まれた義朝は、少年期に東国へ下向。 頼義が前九年の役で得た安房国の 丸御厨 に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたものと考えられています。 そのため、「上総御曹司」と呼ばれました。 ※義朝の東国下向は、為義から廃嫡されたためという説もあります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~東国に勢力~ 東国で成人して相模国に本拠を置いた義朝は、1143年(康治2年)から1145年(久安元年)にかけて相馬御厨を、1144年(天養元年)には大庭御厨の支配権に介入して、有力豪族を傘下に収め、勢力を伸ばします。 壽福寺 義朝は、先祖頼義が平直方から譲り受けた鎌倉の亀ヶ谷に館を構えます。 壽福寺 はその旧跡に建てられた寺です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~中央へ進出~ 南関東の武士団を統率する地位を確立した義朝は、東国を長男の義平に任せて中央へ進出し、 熱田神宮 大宮司藤原季範の娘 由良御前 を正室に迎えます。 1147年(久安3年)には嫡男の頼朝が誕生。 熱田神宮 その後、院近臣を後ろ盾とした義朝は、1153年(仁平3年)に下野守に任じられ、都の武者としての地位を高めていきます。 一方、対立関係にあった父の為義は、次男の 義賢 を北関東に下向させて、義朝を牽制しますが、1155年(久寿2年)、義朝は、鎌倉の義平に命じて義賢の 大蔵館 を攻めさせて討ち取り、東国での地位を固めます。 源義賢の墓 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~保元の乱~ 1156年(保元元年)は、皇位継承問題と摂関家の内紛から起こった保元の乱で、義朝は 平清盛 とともに後白河天皇に味方して勝利します。