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8月 18, 2024の投稿を表示しています

石橋山から伊豆へ向かった北条宗時~石橋山の戦い~

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1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で 源氏再興の挙兵 をした 源頼朝 は、8月24日、 石橋山の戦い で大敗。 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い での敗北後、 北条時政 と 北条義時 は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、 北条宗時 は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。 しかし、宗時は平井郷を目の前にして 伊東祐親 軍に討たれてしまいます。 時政 が甲斐国を目指したことについては、 武田信義 を味方につけるためということで理解できますが・・・ 宗時は何故、 伊豆国 へ戻っていったのでしょう・・・ 宗時の墓 があるのは函南町大竹。 川を渡れば平井。 もう少しで 北条の地 という場所です。 伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが・・・ 参考までに、 源頼朝 は 石橋山の戦い で討死した者に対して弔いをしているようですが、宗時に対するものは記録されていないようです。 時政 は1202年(建仁2年)に伊豆国で宗時の菩提を弔ったようですが・・・ それは頼朝の死後の事。 石橋山の戦いから20年以上も経ってからのことです。 頼朝と宗時の間には何かあったのかもしれません。 北条父子は頼朝を見捨てたのかも・・・ 📎北条時政の不思議な行動~石橋山の戦い~ 冷川 『吾妻鏡』によると、宗時が討たれたのは早川(はやかわ)。 早川とは函南町を流れる冷川(ひえかわ)の事ではないかとする説があります。 北条宗時の墓 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

金色堂建立900年~道長の法成寺・頼通の平等院と奥州藤原氏~

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平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われました。 その始まりは慈覚大師(円仁)が 延暦寺 に建立した 常行堂 。 藤原道長 が帰依した源信(恵心僧都)が修行をした 横川 の 恵心堂 は、浄土信仰発祥の地といわれています。 貴族階級が競うように阿弥陀堂を建立した中で、1020年(寛仁4年)に創建された 道長 の 法成寺 は最大規模のものだったようです。 法成寺 の造仏を担当した定朝でした。 道長 の没後、東北地方は戦乱の時代となります。 そして、陸奥・出羽の両国を手に入れることになったのが 藤原清衡 。 1105年(長治2年)、 清衡 は前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するための仏国土建設を開始。 中尊寺 には多くの堂塔が建立され、1124年(天治元年)には清衡の廟堂としての阿弥陀堂( 金色堂 )が建立されました。 中尊寺金色堂 2024年(令和6年)は 金色堂 建立から900年。 『吾妻鏡』によると、堂内の阿弥陀三尊・二天・六地蔵は定朝の作。 平等院鳳凰堂 宇治の 平等院 は、 道長 の別荘「宇治殿」を始まりとする寺。 1053年(天喜元年)に落成した阿弥陀堂( 鳳凰堂 )は、 法成寺 の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。 本尊の阿弥陀如来は定朝が造立しました。 『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏三代当主の 藤原秀衡 が平泉に建てた 無量光院 は、平等院を模していたのだといいます。

鎌倉検定過去問~石橋山の戦いと北鎌倉

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(問)平氏打倒の旗挙げの直後、[   ]の合戦に敗れた源頼朝は、海上で三浦氏と合流して、房総半島に逃れた。再度、関東の豪族を集めて勢力を立て直し、鎌倉に入り、[   ]に屋敷を構えた。 1159年(平治元年)の 平治の乱 で 平清盛 に敗れた後、伊豆国に流されていた 源頼朝 は、1180年(治承4年)、 源氏再興の挙兵 をします。 平家の目代 山木兼隆 を討ち、相模国へ進軍しますが、 石橋山の戦い で 大庭景親 ・ 伊東祐親 らの軍に敗れてしまいました。 石橋山古戦場 石橋山 で惨敗した 頼朝 は、一時、 箱根権現 に身を寄せますが、 真鶴 から 安房国 に渡って再起。 千葉常胤 や 上総広常 らを従えて鎌倉入りを果たします。 鎌倉に入った 頼朝 は、父 義朝 の屋敷跡(現在の 壽福寺 辺り)に御所を構えようとしますが、狭いことや 岡崎義実 が義朝のために建てた祠があったことなどから、 大倉 の地を選びました。 当初の頼朝の御所は、山ノ内の首藤兼道の屋敷を移したものだといわれています。 安倍晴明 の護符の貼られた屋敷で火事に遭ったことがないということで選ばれたということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ (問)鎌倉において禅宗寺院が集中するのはどこか。 鎌倉時代、北鎌倉は 山内荘 と呼ばれていました。 1180年(治承4年)、源頼朝が 鎌倉入り した時は 山内首藤経俊 の所領でしたが、経俊が 石橋山の戦い で頼朝に敵対したことから没収され、 土肥実平 に預けられます。 そして、1213年(建保元年)の 和田合戦 で地頭だった実平の孫惟平が 和田義盛 に味方したため、 北条義時 のものとなりました。 そのため、北条氏ゆかりの禅寺が建ち並びます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

8月23日・24日は板橋地蔵尊大祭~頼朝も信仰した地蔵尊なのかも?~

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8月23日、24日は小田原市板橋の旧東海道沿いにある 板橋地蔵尊 の大祭。 この日に参ると亡くなった身内と瓜二つの顔の人に出会えるのだとか・・・。 地蔵堂では、地蔵尊に蝋燭の供養を行ってもらえます。 上の写真の柱に「おろー」と書かれていますが蝋燭のこと。 ※初日の23日には旧東海道沿いに多くの露店が並びます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~箱根の金銀の地蔵尊~ 板橋地蔵尊 は、ものと箱根の白銀山に祀られ、 日金山 の地蔵尊とともに信仰されていたのだといいます。 日金山の地蔵尊は 源頼朝 が信仰し、模刻像を造立して鎌倉に祀りました。 横須賀の 東漸寺 には、鎌倉にあった日金地蔵が安置されています。 日金山東光寺 頼朝と箱根とは深い関係にあります。 もしかしたら、 板橋地蔵尊 も 頼朝 が信仰した地蔵尊なのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鶴岡八幡宮の鳥居の呼び方

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鶴岡八幡宮 の参道・ 若宮大路 にある三つの鳥居の呼び方は・・・ 由比ヶ浜 にあるのが 一の鳥居 、 段葛 が始まる所にあるのが 二の鳥居 、 鶴岡八幡宮 入口にあるのが 三の鳥居 。 しかし、現在とは逆の呼び方をしていた時もあったようです。 つまり、 一の鳥居 が「三の鳥居」と呼ばれていたということです。 1685年(貞享2年)の絵図 これは、徳川光圀が編纂させた 『新編鎌倉志』 所載の絵図ということですが、一の鳥居は「大鳥居」、二の鳥居は「二鳥居」、そして、三の鳥居が「一鳥居」として描かれています。 本文には・・・、 「三所に石の鳥居あり。赤橋の前の鳥居より間四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云ふ。二の鳥居より間、六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也。是を大鳥居と云ふ」 と記されているようです。 ※赤橋というのは 太鼓橋 のことです。 『新編鎌倉志』の他にも、『鎌倉三五記』(紀伊国屋文左衛門)、『東海道名所絵伝』、『鎌倉詣』といった書物にも同じ内容の記載があるようです。

鎌倉宮に祀られている護良親王

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鎌倉宮 鎌倉宮 は鎌倉で悲運の最期を遂げた 護良親王 を祀る社。 護良親王 は、 後醍醐天皇 の皇子。 梶井門跡(現在の 三千院 )に入室し、天台座主( 比叡山延暦寺 の貫主)となって大塔宮と敬称されていました。 1331年(元弘元年)、 後醍醐天皇 が鎌倉幕府倒幕のための元弘の乱を起こすと、 護良親王 は還俗して倒幕運動に参戦。 足利高氏 (尊氏)、 新田義貞 の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します。 しかし、 足利尊氏 と対立して、1334年(建武元年)11月15日、鎌倉に幽閉されてしまいました。 鎌倉宮の土牢 土牢に押し込められた 護良親王 は、妃の南の方以外の付き添いは許されなかったそうです。 鎌倉宮 には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されていますが、このような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったともいわれています。 護良親王 は、約9ヶ月間にわたって幽閉生活を送ります。 そして、1335年(建武2年)7月、 北条高時 の遺児時行が反乱を起こし、鎌倉を守っていた 足利直義 軍を破ります( 中先代の乱 )。 時行が護良親王を奉じることを恐れた 直義 は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました。 護良親王の墓 親王の首は 理智光寺 の僧によって葬られたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~妹の用堂尼は東慶寺へ~ 用堂尼の墓 東慶寺 五世の 用堂尼 は 護良親王 の妹。 親王の菩提を弔うために東慶寺に入山したのだといいます。 ~子の日叡は妙法寺を建立~ 護良親王の墓 (妙法寺) 妙法寺 開山の日叡は、 護良親王 と南の方の子。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大塔宮護良親王御遺跡の碑 (比叡山延暦寺) 比叡山延暦寺 には2度にわたって天台座主となった護良親王の碑が建てられています。 護良親王は「比叡山の大塔に入室したことから大塔宮とも呼ばれる」といいますが・・・ 📎大塔宮と呼ばれた護良親王~なぜ大塔宮なのか?~ 大塔宮仰徳碑 (吉野山) 吉野山 は討幕の挙兵をした護良親王が本拠とした地。 吉野山 では、村上義光が護良親王の身代わりとな