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5月 1, 2022の投稿を表示しています

北鎌倉アジサイ情報!明月院ブルー2022/05/07

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シャクナゲ 新緑 例年、6月の第2週頃から見頃となり、ピークとなるのは6月中旬から下旬のようです。 オオデマリ 本堂後庭園 本堂後庭園は、ユニセフ募金を納めれば入園できます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~アジサイの名所~

長谷の市が開催されます。

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春の 長谷の市 は5月15日。 メイン会場は 長谷寺 。 あじさい散策路 では早咲きのアジサイが咲いている頃。 朝市は 光則寺 。 鉢植えのヤマアジサイ が見頃になってくる頃。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 長谷寺アジサイ物語 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉アジサイの名所

源範頼、平家追討へ出陣!

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『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)8月8日正午、 源範頼 が平家追討のため西海へ出発。 旗印を持つ者一人と弓袋を持つ者一人が並んで前を行きます。 紺村濃の直垂に小具足を着けて栗毛の馬に乗った範頼が続きます。 従う武将は、 北条義時 、 足利義兼 、武田有義、 千葉常胤 、境常秀、 三浦義澄 、 三浦義村 、 八田知家 、八田朝重、 葛西清重 、長沼宗政、 結城朝光 、比企宗朝、 比企能員 、阿曽沼広綱、 和田義盛 、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸三郎、中条家長、 工藤祐経 、工藤祐茂、 天野遠景 、小野寺道綱、一品房昌寛、 土左房昌俊 など・・・。 源頼朝 は、 稲瀬川 に設けられた桟敷でこの様子を見物したのだとか。 ※このころの鎌倉の西の境界は稲瀬川だったようです。 稲瀬川の碑 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

平重衡と源頼朝と千手前

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平重衡とらわれの松跡 (一ノ谷古戦場) 平重衡は、 平清盛 の五男。 南都焼討 で 東大寺 ・ 興福寺 を焼いた武将として知られています。 1184年(寿永3年)2月7日、 一の谷の戦い で捕虜となった重衡。 3月10日、 源頼朝 の願いにより関東に連行されるため、京都を発ち、3月27日に伊豆の国府に到着。 翌日、伊豆の 北条 に来ていた頼朝に対面。 「 後白河法皇 の怒りを慰めるため、また、亡き父 義朝 の仇を討つため、 石橋山 に挙兵して以降、平氏の反逆を平らげて、こうして面会できたことは名誉なこと。 いずれ 宗盛 殿ともお会いできるのでしょう」 と話す頼朝に対して重衡は、 「源平は共に朝廷を守護する者でありましたが、ある時から平家だけが朝廷を守護することになり、官職に就いた者は八十数人、その繁栄は二十数年にも及びました。 今は運尽きて捕虜となりましたが、弓馬に携わる者が、敵のために捕虜にされることは、さほど恥ずかしいことではない。 早く斬罪に処されよ」 と、はばかることもなく話したのだといいます。 三嶋大社 伊豆の国府は現在の 三嶋大社 付近にあったとされています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 4月8日、鎌倉に到着した重衡は、 御所 内の屋敷に入りました。 4月20日、頼朝の許しを得て、穢れを洗い流すための儀式(沐浴の儀)を行います。 夕方になると、頼朝は、藤原邦通・ 工藤祐経 ・千手の前を重衡のもとへ遣わします。 酒と肴も届けさせました。 祐経は鼓を打って今様を歌い、千手の前は琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて宴を楽しみました。 翌日、藤原邦通が頼朝に宴の様子を報告。 重衡の言動と芸能はとても優美なものだったと話すと、頼朝は同席しなかったことを悔いたのだといいます。 そして、千手の前に宿衣を持たせて再び重衡のもとへ遣わし、 工藤祐経 に「田舎の女性もまたいいものですよ。鎌倉にいる間そばにおいておきなさい」と伝言をさせたのだとか。 教恩寺 教恩寺 の本尊・ 阿弥陀如来像 は、頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたものだと伝えられています。 教恩寺の本尊阿弥陀如来像 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1185年(元暦2