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鎌倉:隠れ里伝説!福神の宴会!

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昔、 鶴岡八幡宮 の前には角正という旅館がありました。 その角正にやってきたのが白髪を伸ばし、首の長い徳利(白鳥徳利)を持った老人。 老人は酒一升を買って帰りました。 持参した徳利に口きりいっぱいだったそうです。 次の日、またその老人がやってきます。 例の徳利を差し出して酒を一升五合注文します。 店の人が入るわけがないと思いながら、酒を注ぐと不思議な事に一升五合の酒が入ってしまいました。 さらに次の日は二升買って帰ります。 ただ者ではないと感じた店の人は、老人の後をつけてみました。 馬場小路を歩いて行く老人。 巨福呂坂入口の 青梅聖天 からは山を上り、扇ヶ谷に下りると、今度は 仮粧坂 を上って隠れ里の巌窟に入って行きました。 中の様子はわかりませんでしたが、しばらくすると大勢の楽しそうな声が聞こえてきました。 この話を聞いた人々は、福神が岩窟に集まって酒盛りをしていたのだと噂したのだとか・・・。 旅館角正 (『図説鎌倉年表』より) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 隠れ里・・・ 世を避けて隠れ忍んで生活する人たちの里。 その里は、山奥や洞窟の奥などといった別天地にあって、争いもなく日々が平和で、庶民が求める理想郷であったのだとか。 鎌倉にも隠れ里がありました。 そこが佐助ヶ谷。 そんな隠れ里の神が 源頼朝 の夢の中に現れます。 その一人が宇賀神。 頼朝は宇賀神に隠れ里の霊水に祈るように告げられ、その霊水を見つけて宇賀神を祀ったのだといいます。 それが 銭洗弁財天宇賀福神社 。 銭洗弁財天宇賀福神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137zeniaraibenten.htm もう一人、 頼朝 の夢の中に現れた隠れ里の神がいます。 それは、稲荷神(宇迦御魂命)。 頼朝が伊豆の流人だった頃のこと。 頼朝は稲荷神に挙兵するよう告げられ、そのとおり挙兵した頼朝は、見事に鎌倉に武家政権を樹立しました。 のちに隠れ里で稲荷の祠を発見した頼朝は、 畠山重忠 に命じて社殿を建立したのだそうです。 それが 佐助稲荷神社 。 佐助稲荷神社 https://www.yoritomo-japan.co

深谷上杉氏ゆかりの寺~北鎌倉:明月院~

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深谷上杉氏は、上杉氏の諸家の一つ。 山内上杉家 の上杉憲顕の六男・上杉憲英が武蔵国に 庁鼻和城 (こばなわじょう)を築城し、庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗ったのが始まり。 憲英は、 明月院 開基の上杉憲方の弟。 1456年(康正2年)、憲英の曾孫・房憲のときに 深谷城 が築城され、深谷上杉氏を名乗るようになりました。 やがて、 後北条氏 が武蔵国まで勢力を伸ばしてくると、憲英から数えて七代目の憲盛のときに後北条氏の傘下に入りますが、1590年(天正18年)、八代氏憲のときに豊臣秀吉の小田原征伐で深谷城は開城。 深谷上杉氏の所領は没収され、氏憲は、子の憲俊とともに信州に隠居しました。 のちに、憲俊は池田輝政に仕えて岡山藩士となり、憲盛の子孫は、深谷氏を名乗り、旗本として江戸幕府に仕えているようです。 明月院 https://www.yoritomo-japan.com/page138meigetuin.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~アジサイの名所~ ~開花・見頃情報~

2019:今年は北条早雲没後500年。

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北条早雲 は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏から出た戦国武将。 いろんな呼ばれ方をしてきた本名ですが、現在は伊勢盛時というのが定説となっているようです。 後北条氏(小田原北条氏)の祖。 興国寺城址 (沼津市) 1487年(長享元年)、駿河国の興国寺城を手に入れて、初めて城主となります。 1493年(明応2年)、 堀越公方 足利政知の子茶々丸を攻撃して伊豆国 韮山城 を奪い取ると、1495年(明応4年)には、相模国の 小田原城 を奪い取り、相模進出の拠点としました。 これが戦国時代の幕開けともいわれています。 ※後北条氏が「北条」を名乗るのは、二代氏綱の代からで、早雲が北条を名乗ったという事実はない。 韮山城址 (伊豆の国市) 堀越御所跡 (伊豆の国市) 小田原城 相模に進出した 早雲 は、1510年(永正7年)、鎌倉に 住吉城 を築きますが、三浦道寸(義同)によって奪われてしまします。 早雲を退かせた道寸は 岡崎城 に入りました。 ※三浦道寸は、1247年(宝治元年)に 北条時頼 によって滅ぼされた 三浦氏 の末裔(参考: 宝治合戦 )。 住吉城址 からの景色 (逗子市) 無量寺 (伊勢原市・岡崎城址) 1512年(永正9年)、 早雲 は、道寸の 岡崎城 を攻め、さらに 住吉城 を攻めて道寸を三浦の 新井城 に敗走させます。 これにより早雲は、相模の支配権を手に入れました。 逗子市の 海前寺 には、三浦道寸と 北条早雲 との戦いで討死した武将を葬ったとされる首塚があります。 同じく逗子市の 延命寺 には、三浦道寸の弟道香と主従の墓が建てられています(道香は、道寸が 新井城 に退く際に、ここで自刃しました。)。 海前寺 の首塚 延命寺 の三浦道香主従の墓 そして、 新井城 の三浦道寸攻略のために 北条早雲 によって築かれたのが 玉縄城 。 玉縄城址 北条早雲 は、 玉縄城 を拠点に三浦道寸の籠もる 新井城 を攻め、1516年(永正13年)、三浦道寸を自刃に追い込んでいます。 ※三浦氏は、鎌倉時代と戦国時代の二度にわたって北条氏に滅ぼされたことになります。 新

鎌倉権五郎景政に祟られた奥州からの旅人

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鎌倉権五郎景政 (川名御霊神社の山車人形) 奥州から鎌倉に来た旅人の伝説。 雪ノ下の宿をとって鎌倉見物をしていた旅人は、ある日、坂ノ下の 御霊神社 へ出かけます。 参拝のため神前に立った時でした。 右目に針を刺されたような痛みが走ります。 参拝もそこそこに宿へ帰り、医者に診てもらいますが・・・ 旅人の右目は見えなくなってしまいました。 嘆き悲しむ旅人が宿の主から聞いたのは、 御霊神社 が 鎌倉権五郎景政 を祀る社だということ。 実は、旅人の先祖は後三年の役で景政の右目を射た鳥海弥三郎保則。 景政の祟りに違いないと確信した旅人は、もう一時も鎌倉にいることができず、奥州へ帰って行ったのだとか・・・ 八幡太郎義家と鎌倉権五郎景政 (極楽寺山車武者人形) 御霊神社 https://www.yoritomo-japan.com/page136gorei.htm 鎌倉権五郎景政は16歳で後三年の役に参陣(初陣)。 右目を射ぬかれてしまいますが、それでも奮戦したしたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 特別公開4/28・29・30 端午の節句 端午の節句 5月3日 5月6日まで 5月19日 5月15日 ~アジサイの名所~ ~開花・見頃情報~