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国重文となる奪衣婆坐像~外出は危険だから…自宅で北鎌倉:円応寺~

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 亡者が三途の川を渡り終えると、そこには奪衣婆がいて、亡者は着ている衣をはぎとられるのだとか・・・ 円応寺 の「木造奪衣婆坐像」は、2020年(令和2年)3月19の文化審議会で、すでに重要文化財に指定されている 「木造初江王坐像」 ・ 「木造閻魔王坐像」 ・「木造倶生神坐像」に追加されることとなりました。 ※円応寺は拝観を休止しています。

鎌倉:光明寺大殿の保存修理工事(半解体修理)

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 光明寺 の 本堂 (大殿)は、1698年(元禄11年)に建てられました(国の重要文化財)。 その後、1719年(享保4年)、1770年(明和7年)、1797年(寛政9年)、1823年(文政6年)、1950年(昭和25年)、1971年(昭和46年)に修理が行われてきたそうです。 前回の修理から50年。 10年計画の保存修理工事が始まりました。 工事中は素屋根が建設され拝観できなくなりますが、工事の様子を案内する機会も検討されているようです。 本尊の阿弥陀如来及び諸尊像は 開山堂 に移されています。 大殿工事に伴い 三尊五祖の石庭 は拝観できません。

外出は危険だから…自宅で鶴岡八幡宮その2:静の舞

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 『吾妻鏡』と『北条九代記』によると・・・ 1186年(文治2年)4月8日、 鶴岡八幡宮 で舞った 静御前 。 若宮の回廊に舞台が設置され、工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当。 静は、白雪曲(はくせっきょく・古琴曲)に舞うかのごとく白い袖をひるがえし、歌声は黄竹子(こうちくし・呉声歌曲)を歌いあげるかのように美しく、その声は空いっぱいに響き渡り、梁の塵を動かすほどの見事さで、見ていた者は上下の別なく感動。 しかし、静が歌ったのは 義経 を慕う歌。 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき (吉野山の峰の白雪を踏み分けて、山深くお入りになってしまった義経様の跡が恋しい) しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (糸を繰り返し巻いてできる苧環(おだまき)のように、時をも繰り返して、華やかであった昔と悲しい今を変えることができればよいのに) 頼朝は、 「八幡宮の御宝前で芸を披露するなら、鎌倉幕府の永遠の栄華を祝うべきであるのに、はばかることもなく義経を恋い慕って、離別の悲しさを歌うとは、とんでもない」 として激怒しますが・・・ 政子は頼朝にこう言います。 「かつて流人として伊豆にいらっしゃったとき、あなたと私は結ばれましたが、『平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる』と恐れた父の時政は、私をひそかに家の中に引き込めました。 それでも私はあなたを想い、暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら、あなんたの所へ逃げていったのです。 石橋山の戦い の折には、一人で 走湯権現 に逃れ、あなたの行方を知りたい一心で、夜となく昼となく肝をつぶし、毎日生きた心地もしませんでした。 今の静の胸中は、かつての私の胸中と比べて「そうだろう」と思わせるものです。 静の貞節さを思うと、まことに趣深く感じられます」 この政子の話に頼朝は怒りを解いたのだとか・・・ そして、卯花重(うのはながさね)の衣を脱いで、御簾の外に出すと、静はこれを頂戴してうちかぶり退場したのだといいます。

外出は危険だから…自宅で鶴岡八幡宮その1:別当

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鎌倉:新型コロナウィルス関連情報 鶴岡八幡宮 は、1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖 源頼義 が「源氏の氏神」である京都の 石清水八幡宮 を由比郷鶴岡に勧請したがその始まり( 由比若宮 (鶴岡若宮))。 1180年(治承4年)10月、 源氏再興の挙兵 を果たして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えました。 仮の別当(長官)には、 伊豆山権現 の専光坊良暹(りょうせん)が任命され、若宮や源平池の造営に携わっていましたが、12月には上総国より定兼が招かれて最初の供僧職に任じられます。 2年後の1182年(寿永元年)9月23日、源頼朝は、初代別当に 園城寺 の円暁を任命。 鶴岡八幡宮の社務職次第によると、円暁の母は六条判官 為義 の女ということですので、頼朝の従兄弟ということになります。 その後、尊暁・定暁・ 公暁 (源頼家の子)・慶幸と 園城寺 関係者から登用されますが、六代目の定豪からは 東寺 系の別当も就任するようなり、十九代頼仲以降は東寺系で占められるようになっています。 二十五坊跡 https://www.yoritomo-japan.com/page041nijyogobo.htm 二十五坊跡 は、鶴岡八幡宮の別当坊と供僧坊があった所。