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2月 19, 2012の投稿を表示しています

湘南江の島春まつり2012

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江の島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

東日本大震災~一年目の祈り~追悼・復興祈願祭・・・建長寺

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東日本大震災から一年。 建長寺 では鎌倉の宗教者が集まり、合同祈願が執り行われます。 ★東日本大震災一周忌追善法要~鎮魂の万灯会:長谷寺~ 長谷寺 では、3月10日に「一周忌追善法要」が行われます。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

咲き始めた鎌倉:長谷寺の梅2012/02/24

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長谷寺 でもようやく梅が咲き始めました。 今年の梅は、開花がだいぶ遅れましたが、だんだん暖かくなってきましたので、見頃はもうすぐです。 今、 「福寿草」 が見頃です。 鎌倉:梅の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ume-kamakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

万事皆夢の如し~天神:菅原道真~

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荏柄天神社 の祭神菅原道真は、平安時代前期に活躍した学者、延臣。 宇多・醍醐天皇に仕え右大臣にまで昇りますが、藤原時平の讒言で失脚し、左遷先の太宰府で最期を遂げています。 菅原道真(長谷寺像) 宇多天皇は、891年(寛平3年)、関白藤原基経が没すると、藤原良房・基経の30年におよぶ藤原氏の執政から、天皇親政を復活させます。 菅原道真は、893年(寛平5年)に参議に起用され、藤原氏を牽制する宇多天皇のもとで要職を歴任しました。 895年(寛平7年)、長女衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、897年(寛平9年)には、宇多天皇の第三皇子斉世親王(ときよしんのう)にも娘を嫁がせています。 ※これらの行動は、藤原氏のような野望から出たものではないでしょうが、のちに攻撃される材料となってしまいます。 897年(寛平9年)、宇多天皇が退位し、13歳の醍醐天皇に譲位されます。 宇多天皇は、幼い醍醐天皇に道真の教導に従うよう説き、道真に後事を託したといいます。 そして、醍醐天皇の親政は、宇多天皇の指示に基づき、藤原時平(基経の長男)と道真が内覧という立場から朝政を取りしきることになりました。 ※内覧・・・関白にほぼ等しい地位。 その後、藤原氏の執政に戻したい時平と、親政を維持しようと努める道真との間には緊張した状況が続くことになります。 899年(昌泰2年)には、時平が左大臣、道真が右大臣となりますが、同年、宇多上皇が出家したことによって、醍醐天皇の後楯としての力が弱まり、宇多上皇の庇護をうけてきた道真は大きな打撃を受けます。 宇多上皇の出家は、時平にとっては、道真と対決するいい機会となりました。 一方、公卿たちの間でも、宇多上皇の後押しで右大臣にまで昇った道真に対する反感があったといいます。 そして、901年(延喜元年)正月、時平は、大納言源光を味方に引き入れて行動を開始し、 「道真は天皇を廃し、自分の娘婿である斉世親王を立てるつもりです。 すでに法皇の同意も得ているようです」 と醍醐天皇に讒言したといいます。 醍醐天皇は、1月25日に詔を発し、道真を大宰権帥に左遷しました(昌泰の変)。 ※道真の左遷については諸説ありますが、真相は定かではないようです。 「ながれゆくわれはみく

鎌倉:光則寺の梅2012/02/24

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鎌倉の 梅の名所 : 光則寺 。 まだ「梅が咲いた」と感じられるのはこの木だけです。 鎌倉:梅の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ume-kamakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:光則寺のツバキ2012/02/24

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光則寺 は、鎌倉でも知られた花の寺。 春になると毎週のように景色が変わる寺の一つです。 池の畔に咲くピンクの「太郎冠者(侘助)」が見頃です。 鎌倉のツバキ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/tubaki.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

平清盛が厳島神社に納めた経巻・・・平家納経

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『平家納経』は、平清盛ら平家一門が安芸の厳島神社に奉納した経巻。 平治の乱 で 源義朝 を破った平清盛は、武士としてはじめて公卿の列に加えられ、その後、次々と昇進を重ねます。 (参考: 武家政権を樹立した平清盛 ) なおいっそうの繁栄を願った清盛は、信仰していた厳島神社に三十三巻の経巻を奉納しました。 『平家納経』は、 法華経二十八品 無量義経一巻 観普賢経一巻 般若心経一巻 阿弥陀経一巻 平清盛の願文一巻 の合計三十三巻。 これに経箱一具、唐櫃一合からなっています。 1954年(昭和29年)、その全品が「国宝」に指定されています。 平清盛願文 清盛の願文によれば・・・ 長子重盛をはじめとする子息達、弟の頼盛(池禅尼の子)・教盛・経盛、門人・家僕・縁者三十二人がそれぞれ一巻を分担して、善美を尽くしてつくられたもので、1164年(長寛2年)9月に奉納したとあります。 しかし、清盛直筆の「般若心経」は、その奥書によると、太政大臣に昇進した後の1167年(仁安2年)2月23日に奉納したもののようですので、全体の完成にはこの頃までかかったものと考えられているようです。 経巻 各巻の表紙は金銀の金具で飾られ、表紙見返しには経巻の大意をあらわした絵が描かれています。 法華経薬王品の見返し 厳島神社は、593年(推古元年)の創建と伝えられています。 清盛と厳島神社には、こんな伝説が残されています。 清盛が安芸守だったころ、高野山大塔修復の奉行に任ぜられました。 修復が終わり、高野山に登った清盛の前に老僧が現れます。 老僧は、 「荒廃している安芸の厳島神社を修復し信仰すれば一門は繁栄する」 と清盛に告げたそうです。 老僧を弘法大師だと考えた清盛は、厳島神社を厚く信仰したのだといいます。 その後、 保元の乱・平治の乱 に勝利した清盛は、1160年(永暦元年)8月、はじめて厳島神社を参詣しています。 (参考: 保元の乱・・・武士の台頭   平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏 ) 現在の厳島神社の社殿は、清盛の時代のものではないようですが、1168年(仁安3年)に清盛が援助し、神主の佐伯景弘が造営した姿とほとんど変わりがないと

動物慰霊祭・・・光則寺

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光則寺 の 「動物慰霊祭」 は、動物の死骸が海や川に捨てられている不衛生を浄化するため、作家小島政二郎氏の夫人によって始められました。 光則寺 には「小さきいのち」と刻まれた埋葬塚があります。 イヌやネコ、小鳥、サルなど家庭で可愛がられた動物たちが埋葬されています。 動物慰霊祭 は、春と秋の彼岸に行われています。 埋葬塚の横には、クジャクの小屋があります。 生きている動物が亡くなった動物の横で供養しているようでいい光景です。 (参考: 光則寺のクジャク・・・クースケ ) 彼岸 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

鶴岡八幡宮の献詠披講式~和歌に精通した源頼朝と源実朝~

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毎年3月の最終土曜日か日曜日に、 鶴岡八幡宮 の 舞殿 で行われる 「献詠披講式」 。 「披講」とは、詩歌に曲節をつけて詠み上げることで、本来、和歌は披講することを前提としています。 この儀式は、 司会役の読師(どくじ)1名 全句を節をつけずに読む講師(こうじ)1名 第一句から節をつけて歌う発声 (はっせい)1名 第二句以下を発声に合わせて歌う講頌(こうしょう)4名 によって進行されていきます。 献詠披講式 『吾妻鏡』によれば、 1184年(寿永3年)4月4日、 源頼朝 は、桜が満開の御所に一条能保を招いて花見を催し、「管弦詠歌の儀」を行っています。 1186年(文治2年)8月15日には、 東大寺 再建の勧進のため、奥州へ向かう途中の西行に歌道と弓馬の事について尋ねたといいます。 (参考: 鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬 ) 源頼朝 は、武家の都を創始しただけでなく、和歌にも優れた人物でした。 慈円との贈答歌 「陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ」 は『新古今和歌集』に撰されています。 また、 源頼朝 の次男 源実朝 は、和歌の道に精進し、家集 『金槐和歌集』 を編纂しています。 (参考: 歌人として名を残した三代将軍源実朝 ) 源実朝の歌碑 鎌倉国宝館 前の「源実朝の歌碑」には、 「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 と刻まれています。 献詠披講式 鶴岡八幡宮 で行われる 「献詠披講式」 は、和歌に精通していた 源頼朝 や 源実朝 にちなんで、平成17年より始められました。 披講される和歌は、実朝の一首と公募によるものだということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆