荏柄天神社 の祭神菅原道真は、平安時代前期に活躍した学者、延臣。 宇多・醍醐天皇に仕え右大臣にまで昇りますが、藤原時平の讒言で失脚し、左遷先の太宰府で最期を遂げています。 菅原道真(長谷寺像) 宇多天皇は、891年(寛平3年)、関白藤原基経が没すると、藤原良房・基経の30年におよぶ藤原氏の執政から、天皇親政を復活させます。 菅原道真は、893年(寛平5年)に参議に起用され、藤原氏を牽制する宇多天皇のもとで要職を歴任しました。 895年(寛平7年)、長女衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、897年(寛平9年)には、宇多天皇の第三皇子斉世親王(ときよしんのう)にも娘を嫁がせています。 ※これらの行動は、藤原氏のような野望から出たものではないでしょうが、のちに攻撃される材料となってしまいます。 897年(寛平9年)、宇多天皇が退位し、13歳の醍醐天皇に譲位されます。 宇多天皇は、幼い醍醐天皇に道真の教導に従うよう説き、道真に後事を託したといいます。 そして、醍醐天皇の親政は、宇多天皇の指示に基づき、藤原時平(基経の長男)と道真が内覧という立場から朝政を取りしきることになりました。 ※内覧・・・関白にほぼ等しい地位。 その後、藤原氏の執政に戻したい時平と、親政を維持しようと努める道真との間には緊張した状況が続くことになります。 899年(昌泰2年)には、時平が左大臣、道真が右大臣となりますが、同年、宇多上皇が出家したことによって、醍醐天皇の後楯としての力が弱まり、宇多上皇の庇護をうけてきた道真は大きな打撃を受けます。 宇多上皇の出家は、時平にとっては、道真と対決するいい機会となりました。 一方、公卿たちの間でも、宇多上皇の後押しで右大臣にまで昇った道真に対する反感があったといいます。 そして、901年(延喜元年)正月、時平は、大納言源光を味方に引き入れて行動を開始し、 「道真は天皇を廃し、自分の娘婿である斉世親王を立てるつもりです。 すでに法皇の同意も得ているようです」 と醍醐天皇に讒言したといいます。 醍醐天皇は、1月25日に詔を発し、道真を大宰権帥に左遷しました(昌泰の変)。 ※道真の左遷については諸説ありますが、真相は定かではないようです。 「ながれゆくわれはみく