平家に焼かれた園城寺(三井寺)
園城寺 園城寺 は、天台寺門宗の総本山。 源頼義 ・ 新羅三郎義光 をはじめとする源氏ゆかりの寺。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~平清盛の園城寺焼討ち~ 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)12月11日、 平清盛 は、5月の以仁王の挙兵に際して、 園城寺 が味方したのを理由に、五男 重衡 を遣わして合戦に及んでいます。 園城寺が以仁王に味方したことについて、清盛は大して気にしていなかったようですが、 以仁王の令旨 を受けた伊豆の 源頼朝 が 挙兵 したことで、頼朝にも味方する可能性を心配しての決定だったようです。 翌12月12日、園城寺は焼かれ、金堂以下の堂塔は、ほとんど灰となってしまいました。 このとき、すでに南都( 東大寺 ・ 興福寺 )も攻撃する計画があったようです。 ※ 平重衡の南都焼討 が起こるのは12月28日。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鎌倉幕府に保護された園城寺~ 鎌倉に武家の都を打ち建てた 源頼朝 は園城寺を保護し、1182年(寿永元年)には、 鶴岡八幡宮 の初代別当に園城寺の円暁を任命しています。 頼朝亡き後も園城寺保護は引き継がれ、1214年(建保元年)、 延暦寺 に焼かれた園城寺の再建に尽力したのは 北条政子 だったそうです。 二代将軍 源頼家 の子・ 公暁 が修行したのも園城寺でした。 1219年(建保7年)、三代将軍 源実朝 が公暁に暗殺されると、一時期、鎌倉幕府から冷遇を受けることとなりますが、五代執権 北条時頼 の信頼が厚かった隆弁が 鶴岡八幡宮 と 園城寺 の別当に就任すると、衰退しつつあった園城寺は、時頼の支援を受けながら再興されたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 園城寺は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の誕生の際に産湯に用いられた 霊泉 があることから「御井の寺」と呼ばれていました。 そのため、一般的には「三井寺」(みいでら)と呼ばれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!