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中世武家政権と江の島

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江の島 江島神社 は、欽明天皇の勅命で 岩屋 に宮を建てたのがはじまりとされ、その後は、神仏習合の与願寺として信仰を集めてきました。 鎌倉に武家の政権が発足すると、 江の島 もその影響を受けるようになります。 天女と五頭龍の伝説 『江の島縁起』では、552年(欽明13年)、天女出現ともに忽然と現れた島が 「江の島」 であると伝えています。 江島神社 と 龍口明神社 に置かれている絵本です。 江の島の天女(弁財天)と五頭龍の伝説がわかりやすく描かれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源頼朝の参詣と北条氏の家紋~ 『吾妻鏡』は、1182年(寿永元年)4月5日、 源頼朝 が47名の御家人とともに 江の島 の 岩屋 に参詣し、 文覚 に命じて弁財天を勧請したと伝えています。 これは、 奥州平泉 の藤原秀衡の調伏を祈願したもので、この行事がきっかけとなって、鎌倉時代には将軍家や北条執権家が 江の島 を訪れるようになったといいます。 江島神社奉安殿 『太平記』には、 北条時政 が、1190年(建久元年)に 江の島 に参籠して子孫の繁栄を祈願した際に、天女(龍神)が現れて子孫繁栄を約束し、 そのときに残されていた3枚の鱗から、北条氏の家紋である 「三つ鱗」(ミツウロコ) が誕生したという説話が載せられています。 岩屋 から見える海 江島神社 の神紋の三つ鱗 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源実朝の命による辺津宮の創建~ 辺津宮は、1206年(建永元年)、三代将軍 源実朝 の命を受けた 鶴岡八幡宮 の供僧良真によって建立されたと伝えられています。 かつては、良真の木像が安置されていましたが、現在は 聖天島 の社に安置されています。 瑞心門 横の 蟇石 には良真の伝説が残されています。 聖天島の良真像 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~陸続きになった江の島~ 『吾妻鏡』では、1216年(建保4年)、 江の島 と片瀬が陸続きとなって船を使わずに渡れるようになったことが記されています。 江の島トンボロ 江の島 は片瀬の浜と砂州で結ばれている陸繋島(りくけいとう)です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~室町時代の江の島~

大注連祭~白山神社:鎌倉~

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今泉の 白山神社 では、毎年1月8日に大ハガチ(ムカデ)に模した大注連を張る 「大注連祭」 が行われます。 相模地方では、ムカデのことを「ハガチ」と呼んできたそうです。そして、ムカデは毘沙門天の使いとされ 白山神社 の守護虫と伝えられてきました。 大注連祭 は「豊年祈願の祭」と伝えられているようですが、ムカデと豊年との関係は定かではないようです。 ただ、今泉にはムカデの捕殺禁止の慣習が伝えられているといいますので、昔から農業とムカデには何らかの関係があったのかと推測できます。 「ムカデが農作物の害虫を食べてくれるため」という説もあります。 朝9時頃から祭事の準備が始まります。 神社の入口には、大注連を綯うための藁が積んでありました。 昨年張られた大注連です。 これはとりはずされ、左義長の際に炊きあげられます。 白山神社 1191年(建久2年)に 源頼朝 が京都 鞍馬寺 から毘沙門天を勧請し、 毘沙門堂を建立したことにはじまると伝えられています。 https://www.yoritomo-japan.com/page140hakusan.htm  氏子が持ち寄った新藁で大注連が綯われます。 長さ6㍍にもなる三つよりの注連です。 一方で、ムカデの足が作られます。 ムカデの足 7本のもの、5本のもの、3本のものがあって、 この7・5・3を1組として合計12組の足が作られます。 出来上がった注連が吊されます。 御幣が刺された注連に足がかけられます。 これで飾りが終了しました。 大注連に7・5・3(15本1組)の足が12組つるされています。 12時頃完成しました。 特殊技術が必要な大変な作業です。 そして、大注連の下で神職による神事が行われます。 続いて、古い注連を炊き上げる左義長神事が行われました。 かけられた大注連は、翌年のこの日(1月8日)までそのままにされます。 白山神社 は、古くから毘沙門堂として親しまれ、 白山神社 の下にある今泉寺が別当寺を務めていました。 明治の神仏分離によって 「白山神社」 と改められて

鶴岡八幡宮の上宮(本宮)

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鎌倉の中心にあり、武家政権の象徴的な存在でもあった 鶴岡八幡宮 は、 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をし、関東武士団を従えて鎌倉入りを果たした 源頼朝 によって創建されました。 鎌倉入った 頼朝 が最初に行ったのが、先祖 源頼義 が勧請した由比郷の鶴岡若宮( 元八幡 )を現在地の小林郷に遷すことでした。 これが、現在の 鶴岡八幡宮 ということになります。 当時の 鶴岡八幡宮 は、神仏習合の宗教施設で、1182年(寿永元年)に造営された 源平池 などは、浄土思想の影響を受けていると考えられています。 また、1189年(文治5年)には、亡き母(由良御前)の供養のために塔を建立したことが『吾妻鏡』に記されています。この塔は、五重塔だったと考えられています。 (参考: 鶴岡八幡宮の五重塔 ) しかし、この 鶴岡八幡宮 が1191年(建久2年)3月4日に焼失してしまいます。 未明に 小町大路 で発生した火災は、強風にあおられ大火災となりました。 北条義時 などの御家人の屋敷を焼き尽くし、 鶴岡八幡宮 にもその火が燃え移りました。 頼朝 は甘縄の 安達盛長邸 に避難したと伝えられています( 安達盛長邸 は、長谷の 甘縄神明神社 の辺りにありました。)。 (参考: 建久2年の鎌倉大火・・・鶴岡八幡宮が灰燼と化す ) 3月6日、 鶴岡八幡宮 に参った 頼朝 は、焼け残った礎石を見て涙したと伝えられています。 当時の考えとしては、神社仏閣の焼亡というのは、その神や仏の威光が衰えたことを意味していたともいわれますので、 頼朝 の「武家政権の象徴が燃えた」ということのショックは大きかったことと思われます。 ただ、 頼朝 の行動はす早く、焼失後すぐに再建に向けた工事が行われました。 そして、改めて 石清水八幡宮 が勧請され、現在のような 上宮(本宮) と 下宮(若宮) の上下二段の構成となる社殿が再建されました。 本宮 火災後、大臣山の中腹を削り取る工事が行われ、そこに 本宮 が建てられました。 町で起こった火災から防ぐ目的で高台に 本宮 が造られたと考えられています。 回廊 鶴岡八幡宮 は、 本宮 、 若宮 ともに広い回廊を巡らしていたのが特色でした。 石清水八幡宮

除魔神事~鶴岡八幡宮~

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源頼朝のころから行われているという悪魔払いの神事です。 弓矢での悪魔払いは古代より行われ、弓弦の音を響かせての厄払いが信仰されてきました。 鶴岡八幡宮 では、1月5日、 舞殿(下拝殿) 横に5尺2寸(156㎝)の的が設けられ、これを射て鬼を払うという儀式が行われています。 鎌倉時代には、「弓始」、「的弓」などと呼ばれ、武家の事始めとして行われていました。 まず、 舞殿(下拝殿) で神事が執り行われます。 神事の後、舞殿横の放射の儀式が執り行われます。 蟇目の儀(ひきめのぎ) 先端の膨らんだ矢が放たれると大きな音を響かせます。 この音で悪魔を退散させるのだといいます。 大的が置かれました。 5尺2寸(156㎝)という大きな的を使用するので、 「大的式」とも呼ばれています。 「大的式はじめませぇ!」という号令の後、 2人ずつ3組の射手が、それぞれ2本ずつの矢を放ちます。 大的の裏には「鬼」と書かれています。 この的を射ることによって鬼払いをしようというものです。 さて、この大的ですが、わざと「鬼」の字を逆さにしているそうです。 そして「鬼」の字には角がありません。何故なのかは不明です・・・。 除魔神事 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/jyomasinji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html