別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月19日火曜日

大江広元の墓

源頼朝墓の東隣の山の中腹には、二代執権北条義時の法華堂跡とされる平場があります。

その奥の階段を上ると鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元の墓とされる五輪塔があります。



この石段を上がると北条義時の法華堂跡です。

灯籠は、1858年(安政5年)に建てられたもので、毛利家の家紋「一文字三つ星」が入っています。

一文字三つ星

大江広元の四男季光は、戦国時代、中国地方を制覇した毛利氏の祖にあたります。

「一文字三つ星」は毛利氏の家紋です。


墓への石段

北条義時の法華堂跡の奥にある石段です。

左側の鳥居のある石段を上がると大江広元と、その子毛利季光の墓があります。

右側は薩摩島津氏の祖島津忠久の墓への石段です。


大江広元墓

大江広元は式部少輔大江維光の子です。

源頼朝は1184年(元暦元年)、京より広元を招きます。

そして公文所(のちの政所)の別当に任じています。


毛利季光墓

島津忠久墓

大江広元の墓の左側には子季光の墓が並んでいます。

広元の墓は1823年(文政6年)に建てられたと伝えられています。

季光の墓は、鶴岡八幡宮西の鶯ヶ谷にあったものが大正10年に移されたと伝えられています。

広元と季光の墓の右側には、島津忠久の墓があります。

忠久は源頼朝の子ともいわれています。

現在の墓は、1779年(安永8年)に島津重豪が頼朝墓と一緒に整備したものです。


~胡桃山にあるもう一つの広元の墓~

大江広元墓

明王院の裏山を上がっていくと大江広元の墓とされる五層塔があります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源義経腰越状広元あてに書かれていました。

守護・地頭の設置は広元の献策によるもといわれています。

梶原景時の弾劾状は和田義盛らに強迫された広元源頼家に提出しました(梶原景時の変)。

源実朝は公暁に襲われた際「広元やある」と言ってこの世を去ったといいます。

承久の乱では広元が出撃を主張しました。

源頼朝北条義時北条政子らとともに鎌倉幕府の基礎を築いた広元は、1225年(嘉禄元年)に亡くなります。

屋敷は十二所にあったと伝えられ、そこには「大江広元邸跡」の石碑が建てられています。

四男季光は宝治合戦で滅亡しますが、その家系は戦後時代に中国地方を制覇した毛利元就に繋がっているといわれています。



鎌倉手帳


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