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世界文化遺産候補・・・極楽寺

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極楽寺 極楽寺 は、西大寺流律宗叡尊の弟子忍性が開いた寺です。 律宗は、叡尊の鎌倉下向によってその基盤が確立されました(参考: 新清涼寺釈迦堂 )。 一升桝遺跡 仏法寺跡 忍性墓 伝上杉憲方墓 は、極楽寺境内とともに国の指定史跡。 忍性塔 五輪塔 木造釈迦如来立像(清涼寺式釈迦如来) 木造釈迦如来坐像 木造不動明王坐像 木造十大弟子立像 金銅密教法具 などが国の重要文化財に指定されています。 毎年4月7日から9日にかけて、秘仏本尊の木造釈迦如来立像(清涼寺式釈迦如来)が開帳されます。 4月8日には、忍性墓も公開されます。 世界文化遺産候補21の史跡 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

世界文化遺産候補・・・覚園寺と百八やぐら

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百八やぐら群 覚園寺 は、1218年(建保6年)に二代執権 北条義時 の建てた大倉薬師堂を前身としている寺です。 焼失後の1296年(永仁4年)、九代執権 北条貞時 が、 元寇 が再び起こらぬようにとの願いから寺に改めました。 源実朝暗殺 にまつわる 「戌神将伝説」 が残されています。 開山塔 大燈塔 木造地蔵菩薩立像(黒地蔵) 木造薬師如来及日光・月光菩薩坐像 木造十二神将立像 黄釉草葉文壺 銅五輪塔 などが国の重要文化財に指定されています。 裏山の 「百八やぐら群」 は、鎌倉最大の「やぐら群」で、あらゆる形式の「やぐら」を見ることができます。 世界文化遺産候補21の史跡 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

時宗総本山遊行寺の節分

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遊行寺 の節分祭 遊行寺 鎌倉新仏教 の一つ 「時宗」 の総本山。 正式名称は「藤澤山無量光院清浄光寺」。 鎌倉四大寺 に数えられた寺院です。 「骨董市」が開かれていました。 「西富ばやし」の皆さん。 遊行寺 は、藤沢市西富にあります。 和尚さんは93歳。お元気です。 「私のように生きれば、福祉予算の心配はない」 とおしゃっていました。 藤沢市の無形民俗文化財 「藤沢とび職木遣」 本堂で「追儺式」が行われた後、「豆まき」が行われます。 遊行寺 の「豆まき」のかけ声は、「福はうち」のみです。 この男、どこかで・・・ 鎌倉の節分祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/setubunsai.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

節分の水行・・・龍口寺

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藤沢片瀬の 龍口寺 では、節分の豆まきに先立って、修行僧による「水行」が行われます(参考: 長勝寺の大国祷会成満祭 )。 龍口寺 龍口寺 は、 日蓮 の法難霊場に建てられた寺です。 参考: 龍ノ口刑場跡 水温は7℃だということです。かなりの冷たさです。 水行をする僧が、うちわ太鼓に導かれて水行場に向かいます。 経文を唱え・・・ 手桶で水をすくって、何回も頭から冷たい水を浴びます。 「水行」が終わると本堂で「追儺式」と「豆まき」が行われます。 ※「追儺」とは、「鬼やらい」の儀式です。 ★ 長勝寺の大国祷会成満祭 鎌倉の節分祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/setubunsai.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

世界文化遺産候補・・・鎌倉大仏

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鎌倉大仏 現在の青銅製の 鎌倉大仏 は、1252年(建長4年)に鋳造が開始され、大仏殿に安置されたといいますが、その完成の時期は明らかではありません。 参考: 鎌倉の大仏さま~高徳院~ 宋の影響を受けた仏像で「国宝」に指定されています。 中国の宋朝様式の中にも日本風の意匠が認められる傑作 。 鎌倉に大仏を造ろうとしたのは 源頼朝 だったともいわれています。 頼朝の意志を受け継いだのが仕えていた稲多野局で、僧浄光が勧進活動を行い、都会の人も田舎の人も身分の上下に関係なく寄進を行ったと伝えられています。 1238年(嘉禎4年)から大仏造立工事が始められ、6年後の1243年(寛元元年)に完成した大仏は、木製のものでした。 しかし、せっかく造られた大仏は、1247年(宝治元年)に台風のため崩壊してしまいます。 それから5年後に、現在の青銅製の大仏の鋳造が開始されます。 完成した大仏は、大仏殿に安置されていましたが、1495年(明応4年)に起きた大地震による津波で、大仏殿が流され露座になったと伝えられています。 鎌倉大仏 には金箔が施されていました。 よく見ると顔にその面影が残されています。 大仏の周りに並んでいる石は、大仏殿の礎石です。 世界文化遺産候補21の史跡 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

北条政子の上洛と将軍継嗣問題

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1218年(建保6年)2月4日、 北条政子 が熊野参詣のため、弟の北条時房を連れて鎌倉を出発しました。 その折、京都にも滞在しています。 ・・・というより真の目的は上洛にあったようです。 ~将軍継嗣問題~ 『愚管抄』によれば、上洛した 政子 は、子ができない将軍 源実朝 の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に皇族将軍の斡旋を相談しています。 当時、兼子は、後鳥羽上皇の皇子冷泉宮頼仁親王の養育を任され、絶大な権力を持っていたといいます。 頼仁親王は 実朝 の妻坊門信子の甥にあたります。 そして、2人の間では、頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたと考えられています。 ※『吾妻鏡」によれば、 実朝 は、「源氏の正統は自分の代で絶えるから、せめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」と語っていたといいます。 参考: 昇進を重ねた源実朝 源実朝像 ~政子を従三位に叙す~ 『吾妻鏡』によれば、 政子 は、京都滞在中の4月14日、従三位に叙せられています。 出家の者の叙位は、男性の場合、道鏡以外には例がなかったようですが、女性の場合、安徳天皇の外祖母二位の尼(平清盛室)や藤原忠実の母の叙位の例があったそうです。 それにならっての叙位だったといいます。 15日には後鳥羽上皇に対面する機会にもめぐまれますが、 「田舎育ちの老尼が、上皇様のお顔を拝謁しましても失礼申し上げるばかり」 として辞退し、諸寺礼拝の志を投げ打って京を去ったそうです。 鎌倉へは29日に戻っています。 ※「政子」という名は、従三位に叙せられたときに、父 時政 の一字とって命名されたといいます。 ※ 政子 は、10月13日には従二位に叙せられています。 ~実朝の死と親王将軍の要請~ 政子 の上洛からわずか9ヶ月後の1219年(建保7年)正月27日、 実朝 が暗殺され、早くも藤原兼子と交わした親王の東下の約束が現実ものとなります。 (※ 政子 が親王の東下を藤原兼子と約束したのが前年の春のこと。この時すでに、「 実朝 の死が予定されていた」とも考えられる準備のよさです。) さっそく 政子 は二階堂行光を京都に使わし、2月13日、親王の東下を要請させています。 しかし、後鳥羽上皇は、「いずれ

世界文化遺産候補・・・瑞泉寺

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瑞泉寺 瑞泉寺 は、七朝帝師とも呼ばれた 夢窓疎石 (夢窓国師)が開いた寺です。 代々の鎌倉公方の菩提寺として栄え、関東十刹第一位の格式を誇りました。 ◎ 庭園 夢窓疎石 の禅思想に基づいて造られた岩盤をくり抜いた庭園です。 庭園内にあった偏界一覧亭では、 鎌倉五山 の僧が集まり詞会を開いていたといいます。 国の名勝に指定されています。 世界文化遺産候補21の史跡 ★ 禅宗文化と世界文化遺産 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

平清盛の最期・・・平氏の没落

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1181年(治承5年)閏2月4日、平氏の独裁政権を実現した平清盛が、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなります(享年64歳)。 その前月末から病に倒れていました。大陸から伝来したマラリアに罹ったのではないかといわれています。 ※九条兼実の『玉葉』には「通風」、藤原定家の『明月記』には「動熱悶絶」とあるようです。 『吾妻鏡』は、 「3日以後に葬儀行い、遺骨は播磨国山田法華堂に納め、7日毎に仏事をして、毎日は行わないように。京都で追善をしてはいけない。そして、子孫は東国を降伏させる事」 と遺言したと伝えています。 ※清盛の墓所と伝わっている場所は、何ヶ所かあるようです。 ※『平家物語』は、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言したと伝えています ( ★ 平家物語が描く平清盛の死 )。 ※『玉葉』は、「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と遺言したと伝えています。 平清盛 (京都: 六波羅蜜寺 蔵) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 平清盛は、1179年(治承3年)11月20日、後白河法皇を幽閉し、娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ平氏による独裁政治を始めます。 清盛の死は、それからわずか1年と数ヶ月後の事でした。その間、以仁王の挙兵・福原遷都・源頼朝の挙兵・平安京還都・南都焼討と様々な出来事がありました。 平氏による独裁政治は、貴族・寺社・武士からの反発を受け、全国的な反平氏勢力の蜂起につながっていたのです。 ★ 武家政権を樹立した平清盛 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~以仁親王の令旨~ 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第二皇子以仁王が源頼政と謀って、全国の源氏に平氏打倒の令旨を発し、自らも挙兵します。 以仁王の挙兵は失敗に終わっていますが、令旨は、4月27日に伊豆の 源頼朝 のもとにも届いています。 伊豆 蛭ヶ小島 (源頼朝・政子夫妻の像) 1180年(治承4年)4月27日、 伊豆に流されていた 源頼朝 のもとに以仁王の令旨が届きます。 ★ 平清盛と源頼朝 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~福原遷都~ そんな情勢のなかの5月30日、清盛は都を福原(現神戸市)に遷すことを発表し、6月2日には遷幸が強行されました。 その動機は今日でもはっきりとしないようですが・