源為朝は、源為義の八男。 13歳のときに父為義に追放され九州へ渡りますが、九州では自ら「鎮西八郎」と名乗り大暴れしていました。 為朝の身長は2m10㎝、左腕が右腕よりも12㎝も長かったといいます。 そして、105㎝の太刀を差し、255㎝の強弓(五人張り)を持っていたといいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 保元の乱 で 源義朝 に従い、為朝の矢を受けて負傷した 大庭景義 は、「鎮西八郎(為朝)は、無双の弓矢の達者也」と述べています(1191年(建久2年)8月1日条)。 源為朝ともいわれている武者絵 1156年(保元元年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立によって 保元の乱 が勃発します。 源為義は、頼賢、為朝などの一族とともに崇徳上皇方に付きます。 一方、為義の嫡男 義朝 は東国武士団を率いて後白河天皇方に付きました。 軍議の席で為朝は、夜討ちを主張しますが、藤原頼長の反対によって実現しませんでした。 逆に兄 義朝 に夜討ちをかけられ崇徳上皇方は敗れ去っています。 (参考: 保元の乱・・・武士の台頭 ) 保元の乱 後、逃亡していた為朝でしたが、近江国坂田で捕らえられてしまいます。 父為義らは、兄 義朝 によって処刑されていましたが、為朝はその武勇を惜しまれて助命され、伊豆大島に流されました。 そんな為朝が、ある日、腕試しのために鎌倉の天照山に向けて矢を放ちます。 その矢が落ちた場所が 鎌倉十井 の一つ 「六角ノ井」 だったといいます。 六角ノ井 『新編鎌倉志』には、為朝の放った矢は、 海上18里を越えて、この井戸に落ちたと記されているようです。 今でも矢の根(鏃)は井戸に残されているといいます。 伝説によれば、里人が矢の根を井戸から拾い上げたところ、たちまちに井戸の水が濁り、祟りだと噂されたといいます。 また、ある里人は矢の根を 住吉明神 に奉納したところ、井戸の水が濁ってしまったという伝説も残されています。 六角ノ井 https://www.yoritomo-japan.com/page135rokkaku.htm