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2月 12, 2012の投稿を表示しています

円覚寺居士林の福寿草

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円覚寺 塔頭 済蔭庵 (居士林)の 福寿草 。 鎌倉の福寿草 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/fukujyuso.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源為朝の伝説と鎌倉十井:六角ノ井

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源為朝は、源為義の八男。 13歳のときに父為義に追放され九州へ渡りますが、九州では自ら「鎮西八郎」と名乗り大暴れしていました。 為朝の身長は2m10㎝、左腕が右腕よりも12㎝も長かったといいます。 そして、105㎝の太刀を差し、255㎝の強弓(五人張り)を持っていたといいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 保元の乱 で 源義朝 に従い、為朝の矢を受けて負傷した 大庭景義 は、「鎮西八郎(為朝)は、無双の弓矢の達者也」と述べています(1191年(建久2年)8月1日条)。 源為朝ともいわれている武者絵 1156年(保元元年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立によって 保元の乱 が勃発します。 源為義は、頼賢、為朝などの一族とともに崇徳上皇方に付きます。 一方、為義の嫡男 義朝 は東国武士団を率いて後白河天皇方に付きました。 軍議の席で為朝は、夜討ちを主張しますが、藤原頼長の反対によって実現しませんでした。 逆に兄 義朝 に夜討ちをかけられ崇徳上皇方は敗れ去っています。 (参考: 保元の乱・・・武士の台頭 ) 保元の乱 後、逃亡していた為朝でしたが、近江国坂田で捕らえられてしまいます。 父為義らは、兄 義朝 によって処刑されていましたが、為朝はその武勇を惜しまれて助命され、伊豆大島に流されました。 そんな為朝が、ある日、腕試しのために鎌倉の天照山に向けて矢を放ちます。 その矢が落ちた場所が 鎌倉十井 の一つ 「六角ノ井」 だったといいます。 六角ノ井 『新編鎌倉志』には、為朝の放った矢は、 海上18里を越えて、この井戸に落ちたと記されているようです。 今でも矢の根(鏃)は井戸に残されているといいます。 伝説によれば、里人が矢の根を井戸から拾い上げたところ、たちまちに井戸の水が濁り、祟りだと噂されたといいます。 また、ある里人は矢の根を 住吉明神 に奉納したところ、井戸の水が濁ってしまったという伝説も残されています。 六角ノ井 https://www.yoritomo-japan.com/page135rokkaku.htm

墨書が見つかった阿弥陀三尊像・・・常楽寺

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常楽寺 は、三代執権 北条泰時 が建てた粟船御堂を前身としています。 仏殿 本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像の他、開山の蘭渓道隆像が安置されています。 天井の「雲龍図」は狩野雪信の筆。 阿弥陀三尊像 仏殿 に安置されている阿弥陀三尊像は、これまで南北朝時代の作と考えらていました。 しかし、最近の調査で、阿弥陀像の台座部分から「仁治3年(1242年)6月12日」の墨書が確認されました。 北条泰時 が、この日付から3日後の15日に亡くなっていることから、死期を悟った 泰時 が、その直前に造らせた可能性が高いと考えられているようです。 また、その作風から慶派仏師の定慶の作ではないかと推測されているようです。 北条泰時墓 北条泰時 は、 「連署」 や 「評定衆」 の設置、武家の法典である 「御成敗式目」 (貞永式目)の制定を行い、 北条執権体制 の基礎を固めた人物です。 和賀江嶋 を築港や 巨福呂坂 、 朝夷奈切通 の造営にも力を注ぎました。 泰時 は死後、 常楽寺 に葬られます。 参考までに、墨書の発見によって、阿弥陀三尊像は鎌倉市の文化財に指定されたそうです。 常楽寺 https://www.yoritomo-japan.com/page140jyorakuji.htm

祈年祭2012/02/17・・・鶴岡八幡宮

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「祈年祭」 は、春の農耕が始められるにあたって、その年の五穀豊穣を祈る祭です。 鶴岡八幡宮 では2月17日に執り行われます。 今年は梅の咲き始めが遅くなりましたが、 農耕の始まりの 「祈年祭」 に合わせるかのように、 源氏池 の梅が咲き始めていました。 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

荏柄天神社の寒紅梅2012/02/17

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荏柄天神社 の 寒紅梅 。かなり花が開きました。ようやく梅の季節です。 やはり・・・ 荏柄天神社 の梅が咲かないと鎌倉の梅の季節は始まりません。 古代青軸 拝殿の反対側の 「古代青軸」 の開花はまだのようです。 鎌倉:梅の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ume-kamakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:法華堂跡のツバキ(椿)2012/02/17

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源頼朝墓 の横にはツバキの木が植えられています。 見頃はまだこれからのようですが・・・ ツバキの木は一本だけではありません。 北条義時の法華堂跡 にも。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鉄観音像の伝説と鎌倉十井:鉄ノ井

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いつ頃なのか判りませんが、 北条政子 は、扇ヶ谷に鉄観音像(鉄造の聖観音像)を本尊とする 新清水寺 を創建したといいます。 新清水寺 は鎌倉時代に焼失してしまいましたが、鉄観音像の頭部は、現在も東京人形町の 大観音寺 に伝えられています。 (※鉄観音像は、鋳鉄製で頭部だけでも1.7メートルもある巨大な仏像でした。) 『吾妻鏡』によれば、 1258年(正嘉2年)正月17日午前2時頃、 安達泰盛 の 甘縄邸 から出火。 南風にあおられた火は、薬師堂の裏山を越えて 壽福寺 に至り、総門、仏殿、庫裡、方丈などの堂宇を焼き尽くしました。 さらに 新清水寺 、 窟堂 、その辺りの民家、 鶴岡八幡宮 の宝蔵、 別当坊 などが焼き尽くされましたといいます。 この火災によって、 新清水寺 の鉄観音像も鉄の塊になってしまったかと思われましたが、不思議な事が起こります。 新清水寺 が焼け落ちたとき、突如強い光が発せられ、巽の方角に飛び去っていきました。 翌日、村人が火災の跡片づけをすると、焼けた観音様の胴体はありましたが、首がみつからなかったといいます。 人々はあの光が観音様だったと噂したそうです。 数年が経ち、雪ノ下の井戸が、目を洗えば治り、常用すれば風邪をひかず、胃腸病や傷も治るという評判になります。 そのうち、観音様のお首が井戸の中にあるに違いないという話になり、井戸替えのときに井の底を掘ると観音様のお首が現れました。 地上に引き上げられたお首は、新しく建てられた「鉄観音堂」に安置され、井戸は 「鉄ノ井」 と呼ばれるようになり、参詣者が絶えなかったそうです。 鉄ノ井 観光客で賑わう小町通りのはずれにある井戸です。 鎌倉十井 の一つに数えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 江戸時代には、観光絵図にも載せられ大いに賑わった 「鉄ノ井」 と「鉄観音堂」でしたが・・・ 明治にはいると神仏分離令が出され、それに伴う廃仏毀釈の運動により、鎌倉でも多くの仏像が破壊されたり捨てられたりしたそうです。 鉄観音像も例外ではありませんでした。 拝する人も少なくなり、鉄観音堂も倒れかけていたといいます。 そんな1873年(明治6年)3月、二人の骨董商が鉄観音像を見て「これは儲かる」と考え、 坂ノ下海岸

釈迦苦行像・・・建長寺

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釈迦苦行像 極限の苦行・禁欲(断食)を行っている姿。 建長寺 の釈迦苦行像は、パキスタン北西部地方のガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されている像をもとに製作されたもの。 2005年に愛知万博に陳列された後、 建長寺 に寄贈されました。 法堂 に安置されています。 釈迦は、紀元前5世紀頃、ネパールのルンビニで誕生します。 花まつり (降誕会) 29歳で出家し、約6年間にわたって断食と坐禅の日々を送り、35歳の時に菩提樹の下で悟りをひらきます。 釈迦が悟りをひらいた事を「成道」(じょうどう)といいます。成道の日とされる12月8日には「成道会」が行われます。 そして、80歳で亡くなりました。 涅槃会 釈迦が入滅した日とされる2月15日には、 「涅槃会」 が行われます。 建長寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm

涅槃会・・・建長寺

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2月15日は釈迦が入滅した日。各寺では 「涅槃会」 が行われます。 建長寺 では、 法堂 で法要が行われます。 法堂 内を歩きながら経を唱えます。 涅槃図 釈迦の入滅の時を描いた絵です。 「涅槃会」では 「涅槃図」 を掛けて法要が行われます。 円覚寺 の先々代の管長、朝比奈宗源老師は、幼少の頃に「涅槃図」を見て、「私もこのように多くの人に悲しんでもらう人になりたい」と言われたそうです。 そして、すべての人は仏であり「仏心」をもっていると悟られたそうです。 雲龍図 仏教において龍は仏の教えを人々に伝えるといわれ、修行僧に「法の雨を降らす」という意味があるそうです。 法堂 天井の 「雲龍図」 は、日本画家小泉淳作氏の作品。2012年1月9日に亡くなられ、 建長寺 で葬儀が営まれたそうです。 おびんずるさま 賓頭盧(びんづる)尊者は、釈迦の弟子で、十六羅漢の一人。 自分の身体の悪いところ撫でると良くなるといわれています。 おびんずるさまは、神通力にすぐれていたそうですが、みだりに神通力を使ったということで、お釈迦さまから涅槃を許してもらえませんでした。 そのため、今でも衆生を救い続けているそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 涅槃会 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/nehan.htm