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北鎌倉:つるし飾りのある街2018/02/09

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「初午いなりの日」に鎌倉稲荷!~はんなりいなり~

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2月11日は一般社団法人全日本いなり寿司協会が定めた「初午いなりの日」なのだとか・・・ 2月の初午の日は、全国の稲荷神社の総本社・ 伏見稲荷大社 が鎮座した日。 今年(2018年)は2月7日でした。 初午の日には、五穀豊穣を願う 初午祭 が執り行われ、キツネの好物の油揚げを使った「いなり寿司」をお供えします。 お供えした「いなり寿司」を食べると福を招くとも・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉で人気の「はんなりいなり」 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伏見稲荷大社

奥州へ下った源義経

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兄 源頼朝 と対立し、 1185年(文治元年)11月3日、都落ちした 源義経 。 大物浦 で難破した後、行方をくらまし、長い逃亡生活を送っていました。 比叡山延暦寺 や 興福寺 などにも匿われていた時期があったようです。 そして、青年期を過ごした 奥州平泉 へと向かいます。 義経 が 奥州平泉 へ下ったのは1187年(文治3年)の春ごろと考えられているようです。 『吾妻鏡』の文治3年2月10日条によれば、伊勢国(三重県)から美濃国(岐阜県)を通って奥州へ辿り着いたようです。 正妻の 郷御前 と子も一緒で、山伏や稚児に変装しての旅だったそうです。 しかし・・・ 義経 が 奥州平泉 へと下った年の10月29日、北方の王者と呼ばれた 藤原秀衡 が亡くなります。 秀衡は、長男・国衡と次男・泰衡に対し「義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言したといいますが・・・。 鎌倉の 頼朝 は、跡を継いだ泰衡に圧力を加え続けます。 そして、義経が 奥州平泉 に逃れてから約2年後の 1189年(文治5年)閏4月30日 、頼朝の圧力に屈した泰衡は義経の 衣川館 を襲撃。 義経は持仏堂に入って、 郷御前 と4歳の娘を殺してから自刃したのだと伝えられています(享年31)。 高館義経堂 高館義経堂 は、1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって衣川館跡に建てられました。 内部には義経の木像が安置されています。 弁慶の墓 (中尊寺) 源義経妻子の墓 (金鶏山) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

武運の神と源氏と鶴岡八幡宮

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八幡総本社の 宇佐八幡宮のページ によれば・・・ 「八幡神」は「応神天皇」の神霊で、571年(欽明天皇32年)に初めて宇佐の地に顕れたのだといいます。 宇佐八幡宮の祭神は、八幡神(応神天皇)、比売神、神功皇后で、八幡三神と呼ばれています。 神功皇后は、応神天皇の母。 比売神は八幡神が顕れる以前からの地主神。 宇佐八幡宮は、奈良時代には、 「八幡大菩薩」 の称号をもつようになりました。これによって、全国の寺の鎮護神として八幡神が勧請されるようになります。 そして、武士の尊崇を受けるようになります。 僧形八幡神 (応神天皇) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~石清水男山への勧請~ 859年(貞観元年)、行教が宇佐八幡宮に参り、90日間にわたり神前に祗候し、昼は大乗教、夜は真言密教を誦したところ、 「われは都の近くに移座して国家を鎮護したい」 という八幡大菩薩の託宣があったそうです。 これを受けて岩清水男山に創建されたのが 石清水八幡宮 だと伝えられています。 石清水八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源義家と石清水八幡宮~ 伝えられている話によると・・・ 源頼義 が 石清水八幡宮 に参籠したとき、社殿で三寸の霊剣を賜った夢を見ます。 夢から覚めると枕元には小剣が置かれていました。 この霊夢を見た月に妻が懐妊し、誕生したのが 源義家 でした。 義家 の生年は、はっきりとしませんが、1039年(長暦3年)という説が有力です。 その後、7歳となった 義家 は、 石清水八幡宮 の神前で元服し「八幡太郎」と号したとのだいいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鎌倉由比郷への勧請・・・源頼義~ 石清水八幡宮 を深く信仰していた 源頼義 は、1063年(康平6年)、前九年を平定した後、鎌倉の由比郷に 石清水八幡宮 を勧請し、社殿を創建しました( 由比若宮 )。 1081年(永保元年)には、 義家 が修理を加えたと伝えられています。 これが、 鶴岡八幡宮 の始まりです。 由比若宮 そして、1180年(治承4年)、鎌倉に入った 源頼朝 によって小林郷北山に遷座されました。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-jap