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源頼朝暗殺計画!

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奥州征伐(1189年(文治5年))を行った 源頼朝 は、その折にみた 中尊寺 の二階堂 大長寿院 の荘厳さに感じ、それを模した 永福寺 を建立することとします。 永福寺 (復元図) 永福寺 の建設工事は1192年(建久3年)から始まりました。 頼朝 も工事の様子を見に出掛けています。 『吾妻鏡』の記録によると・・・ 1192年(建久3年)正月21日、人夫のなかに左目を失った男がいたそうです。 怪しんだ 頼朝 は、 「あの男は何者か」 とたずねさせました。 梶原景時 が調べますがわかりません。 頼朝 の前に召し出されたとき、佐貫四郎大夫広綱が身体をしらべると、ふところに一尺あまりの打刀を所持していました。 そして、失明していたと思われた左目には、魚の鱗がはめられ、失明を装っていたことがわかりました。 ますます怪しいので問いただすと、 「上総五郎兵尉忠光」 と名乗ります。 そして、 頼朝 を殺そうとしていたことを白状しました。 頼朝 は、この男を 和田義盛 にあずけ、暗殺計画に組した者が他にいないか調べさせます。 尋問に対し忠光は、 「仲間はいない。 ただし、去年丹波国に隠居した越中次郎兵衛尉盛嗣は、同じ志を持っているかもしれない」 と語ったといいます。 義盛 は、2月24日、武蔵国六連(六浦)の海辺で忠光を斬首に処しています。 ※忠光の語った越中次郎兵衛尉盛嗣(平盛俊の子)は、のちに捕まり 由比ヶ浜 で斬首されています。 上総五郎兵尉忠光・・・ 本名は藤原忠光。 父の藤原忠清は、伊勢国に基盤をおいた藤原秀郷流の伊藤氏の出身で、平氏の有力な家人でした。 1184年(元暦元年)、一ノ谷の合戦後、東国軍の主力が鎌倉に帰還すると、伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こしています(三日平氏の乱)。 その後逃亡していましたが、壇ノ浦の合戦後捕らえられ、1185年(文治元年)5月16日、六条河原で斬首されています。 忠光の弟「悪七兵衛景清」 忠光の弟に、悪七兵衛と呼ばれた景清がいます。 景清は、壇ノ浦での敗戦後、自分を匿ってくれた叔父の大日房能忍を殺害したことから「悪七兵衛」と呼ばれるようになったのだといいます。 1195年(建久6年)、 頼朝

東日本大震災追善の読経

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昨日(4月22日)、 浄妙寺 を訪れた際、「東日本大震災追善の読経」が行われていました。 この度の地震で被害に遭われた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被災地が早く復興できますよう祈念いたします。 これまで、 明王院 、 浄智寺 、 長谷寺 、 極楽寺 、 覚園寺 で行われてきました。 4月28日には 浄光明寺 でも行われる予定です。 (参考:鎌倉Todayのページ) http://www.kamakuratoday.com/info/tohoku.html 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

伝説の鎌足桜~浄妙寺~

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平成20年に 浄妙寺 に植樹された 鎌足桜 。 浄妙寺 といえば、鎌倉という地名の由来となったともいわれている「藤原鎌足の伝説」が残されています。 浄妙寺 には、本堂横に2本の 鎌足桜 が植えられています。 まだ少し早かったようですが・・・。 藤原鎌足の持っていた桜の木の杖が根付いたと伝えられている桜です。 木更津市の指定文化財となっています。 http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,649,38,261.html 浄妙寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page042jyomyoji.htm 浄妙寺の鎌足桜 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/jyomyoji-kamatarisakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

龍ノ口法難とぼたもち寺

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~大町常栄寺の伝説~ 源頼朝 の時代、 鶴岡八幡宮 の 例大祭 は、旧暦の8月15日に行われ 「放生会」 と呼ばれていました。頼朝は、 由比ヶ浜 で千羽鶴を放生したとも伝えられています。 大町にある 常栄寺 は、1271年(文永8年)9月12日、裸馬に乗せられ 龍ノ口刑場 へと護送される 日蓮 に、この地に住んでいた桟敷の尼が「胡麻のぼたもち」を捧げたことから・・・、 『ぼたもち寺』と呼ばれています。 田中優子女史画 『ぼたもちでら常栄寺縁起』より。 源頼朝 は、千羽鶴放生会を観覧するため、この地の山の上に展望台(桟敷)を作ります。 のちに老女がその桟敷を管理するようになったので、その老女は「桟敷の尼」と呼ばれるようになりました。 桟敷の尼は比企能員夫人の妹という説もあります。 尼の夫は六代将軍 宗尊親王 に仕えていた印東次郎左衛門尉祐信で、夫婦そろって 日蓮 に帰依していました。 「ぼたもち寺」と呼ばれる 常栄寺 には夫婦の墓が建てられています。 常栄寺 龍ノ口刑場 に連れて行かれた 日蓮 は、奇跡的に処刑を免れます。 そのため、桟敷の尼の捧げたぼたもちは「頸つぎのぼたもち」と言われ、現在でも9月12日の 龍口法難会 では「胡麻のもち」が供えられます。 常栄寺の名称は、尼の法名「妙常日栄」に因ります。 1606年(慶長11年)に創建された 常栄寺 は、開山日詔が開設した宝篋院檀林という僧侶の学問所でしたが、のちに檀林は武蔵の池上本門寺に移されています。 ~腰越法源寺の伝説~ 法源寺の石標 腰越にも「ぼたもち寺」があります。 鎌倉の源氏山という丘があって、その源氏山から 和賀江島 の出船・入船を見物する人々を相手に茶店を出していた老婆がいたそうです。 日蓮 が法難のあった日、たまたま 小動岬 の実家に帰っていた老婆は、 龍ノ口 に護送されていく 日蓮 と出会います。 その時に、「にぎり飯」を差し出そうとしますが転んでしまい、「にぎり飯」が砂にまみれ、ごまをまぶしたようになってしまいました。 しかし、 日蓮 はそれを喜んで食べたといいます。 その後、 日蓮 が奇跡的に命を助けられたことから、「にぎり飯」が「延命のぼたもち」とか「ご難よけのぼたもち」と呼ばれるようになった

尼将軍と呼ばれた北条政子

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北条政子 は、鎌倉幕府の初代執権となる 北条時政 の長女として伊豆国で誕生しました。 蛭ヶ小島 に流されていた 源頼朝 と結婚し、頼朝が鎌倉に武家の都を創ると御台所として鎌倉幕府を支えました。 「政子」という名は父 時政 の名から付けられたと伝えられていますが、「政子」と呼ばれるようになったのは、1218年(建保6年)に従三位に叙せられたときからのようです。 それ以前はどのような名だったのでしょうか・・・? 北条政子産湯の井戸 (北条氏邸跡にある井戸) 政子 の父 北条時政の館 は、 成福寺 の後方を流れる狩野川の東岸にありました。 この辺りは、室町時代、 堀越公方 と呼ばれた足利政知が留まった所でもあります。 (※政知は、室町幕府八代将軍足利義政の弟で、 鎌倉公方 として派遣されましたが鎌倉に入ることができませんでした。) 源頼朝 が流されていたという 蛭ヶ小島 は、 北条時政の館 からさほど遠くない所にあります。 「頼朝・政子夫妻像」が建てられ、 伊豆韮山 の田園地帯を見つめています。 蛭ヶ小島 (源頼朝配流地) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)8月17日、源氏再興を果たすために 源頼朝 は挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆を討ちました。 山木兼隆の五輪塔 山木兼隆が建てた 香山寺 には兼隆の供養塔が建てられています。 (※一説には、兼隆は 政子 と結婚するはずであったと伝えられています。) 山木兼隆を討った 頼朝 は相模へ進軍しますが、 石橋山の戦い で敗れ海路安房へ渡ります。 政子 は、長女大姫とともに 伊豆山 に留まっていました。 (※大姫は、1178年(治承2年)に生まれたといわれています。) 源頼朝船出の地碑 石橋山の戦い で敗れた 頼朝 は、真鶴町の 岩海岸 から安房に渡ったと伝えられています。 そして、1180年(治承4年)10月6日、大軍を率いて鎌倉に入りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 稲瀬川の碑 (由比ヶ浜) 10月11日、 政子 と大姫も鎌倉に入ります。 前日には 稲瀬川 に到着していたようですが、良日ではなかったため、日の調整のため、 稲瀬川 の民家に留まったといわれています。 当時の鎌倉は、この 稲瀬川 が西の境となっていたよ