投稿

9月 23, 2018の投稿を表示しています

源頼朝の四天王寺参詣

イメージ
1195年(建久6年)3月、 東大寺 の 大仏殿 落慶供養に参列するため上洛した 源頼朝 は、 四天王寺 にも参詣しています。 四天王寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 5月20日午前6時頃、京都を出発。 洛中は牛車で、鳥羽からは丹後局から借りた船で進み、日中に渡辺の津に到着。 再び牛車で四天王寺に向かいます。 北条政子 の牛車が並び、女官の牛車が続きます。 先陣の随兵、牛車に続く供奉人、後陣の随兵は皆騎馬でした。 正午頃に四天王寺に到着。 まずは寺門の外の念仏所に入り、続いて本尊を参拝。 灌頂堂で待っていた別当の定恵法親王に挨拶し、重宝を拝見して宿所へ帰っています。 その後、銀製で蒔絵が施された御剣を 太子堂 に奉納。 定恵法親王には、銀製の鞍を置き、組み緒を掛けた灰色に少し白い毛がまじった馬一頭が贈られ、寺中の僧侶には絹の布類が与えられました。 ※定恵法親王は後白河法皇の皇子 四天王寺 https://www.yoritomo-japan.com/oosaka/sitennouji.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

円覚寺開山の無学祖元(仏光国師)

イメージ
無学祖元 は、中国・宋の禅僧。 1279年(弘安2年)8月20日、八代執権・ 北条時宗 の招きによって来日し、 建長寺 の第五世住持となります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~無学祖元の臨刃偈(りんじんげ)~ 元の侵攻による難を避けて能仁寺にいた無学祖元。 やがてそこにも元の兵がやってきます。 寺僧はみな逃げ出しますが、無学祖元はひとり僧堂に残っていました。 元兵は刀をかざして無学祖元を脅しますが、それに対して・・・ 「振りかざされた剣も、生死を超えた身には稲光のあいまに春風を斬るようなものだ」 といったのだといいます。 元兵は、「死をおそれぬ無学祖元の気迫におされ退散していった」という逸話が残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~莫煩悩~ 1281年(弘安4年)、日本は元軍による二度目の侵攻を避けられない情勢となります。 苦悩の時宗は、この年の正月、無学祖元を訪ねます。 すると、無学祖元は、紙片に「莫煩悩」(まくぼんのう)という三文字を書き、それを時宗に渡しました。 「迷うことなく信ずるところを行え」 という意味であったといいます。 「蒙古の襲来は、大風が掃蕩してくれるので心配ない」 との説明を加えられたともいいます。 そして、この年、元軍が攻めてきました(弘安の役)。 「莫煩悩」の文字を師より受けた時宗は、元の襲来の報が入ると、無学祖元に「喝」(かつ)という言葉を告げて、自分の決意を示したと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 円覚寺 円覚寺 は、元との戦いで犠牲となった者を敵味方なく供養するため 北条時宗 が創建しました。 開山は 無学祖元 。 白鷺池 総門 前の 白鷺池 は、祖元が来日したときに、白鷺に姿を変えた 鶴岡八幡宮 の神霊に導かれた場所だといわれています。 ※ 鎌倉検定 では、白鷺に導かれたのは 北条時宗 ということだったようですが・・・ 白鹿洞 白鹿洞 は、祖元の法話を聞くために集まった白鹿が出てきた穴と伝えられています。 総門の額 円覚寺 の山号は 瑞鹿山 。 白鹿伝説から付けられた山号といわれ、「めでたい鹿のお山」という意味があるのだそうです。 ☆ ☆ ☆ 

清水寺の千手観音に幼い三人の子の無事を祈った常盤御前

イメージ
1159年(平治元年)12月に起こった 平治の乱 。 常盤御前 の夫・ 源義朝 は、 平清盛 に敗れて東国へ逃れる途中の 尾張国野間 で長田忠致に謀殺されました。 源義朝の墓 (愛知県野間大坊) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『平治物語』によると・・・ 常盤御前 には幼い三人の子がいました。 平清盛 がその子らの行方を探していることを聞いた 常盤御前 は、日頃から頼りにしていた観音さまに祈ることとします。 1160年(永暦元年)2月9日、都に入った 常盤御前 は、夕方になって宿所を出て、8歳の今若を先に行かせて、6歳の乙若の手を引き、生まれたばかりの牛若を懐に抱いて、 清水寺 に参ります。 仏前に参った 常盤御前 は、二人の子どもを脇に座らせて、夜通しの何度も何度も祈って観音さまの加護を願ったのだそうです。 清水寺子安塔 常盤御前 は、 清水寺 の千手観音に今若・乙若・今若の三人の無事を祈ったのだといいます。 今若は、のちの 阿野全成 。 乙若は、のちの 源義円 。 そして、今若は、のちに 源平合戦 で活躍する 源義経 清水寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera.htm 『平治物語』によると・・・ 清水寺 を信仰していた 常盤御前 は、9歳の時から月詣でを始め、15歳になるまでは18日ごとに三十三巻の観音経を読み、その後は毎月法華経三部、19歳のときから毎日その三十三体の写仏をしていたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2018お十夜法要の日程~鎌倉:光明寺~

イメージ
山門楼上 13日・14日には、 山門楼上 の公開もあります。 光明寺 の正式名称は天照山蓮華院光明寺。 山門 の天照山の額は御花園天皇の宸筆。 1243年(寛元元年)に 北条経時 によって創建され、開山には浄土宗第三祖の 然阿良忠 が迎えられました。 1495年(明応4年)、第九世観誉祐崇が後土御門天皇から お十夜 を勅許され、勅願所として関東総本山の称号も賜りました。 光明寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135komyoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉:本興寺に咲いていたヒガンバナ2018/09/28

イメージ
  本興寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135honkoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆