投稿

4月 26, 2020の投稿を表示しています

オダマキの花と静御前の歌

イメージ
自宅の近くに「オダマキ」の花が咲いていました。 「オダマキ」の花は、糸を巻いて玉状または環状にした「苧環」(おだまき)に似ていることからついた名なのだとか。 「苧環」といえば・・・ 源義経 の愛人だった静御前の歌。 1186年(文治2年)4月8日、静御前は 鶴岡八幡宮 で義経を慕う歌にあわせて舞います。 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき (吉野山の峰の白雪を踏み分けて、山深くお入りになってしまった義経様の跡が恋しい) しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (糸を繰り返し巻いてできる倭文(しず)の苧環(おだまき)のように、時をも繰り返して、華やかであった昔と悲しい今を変えることができればよいのに) 「しづやしづ・・・」は、「倭文の苧環」と自分の名「静」をかけていたのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 紫のオダマキは「勝利への決意」、白いオダマキは「あの方が気がかり」というのが花言葉なのだとか・・・。 何か静御前にピッタリの花のような・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

五重塔高さベスト3~東寺・興福寺・八坂の塔~

イメージ
日本の木造塔の高さベスト3は・・・ 東寺五重塔 (国宝) 東寺 は平安京の南玄関である 羅城門 を守護するために創建された寺。空海が創建に着手した 五重塔 は、880年頃に完成したと考えられています。 現在の塔は1644(寛永11年)の再建。高さ54.8メートル。 興福寺五重塔 (国宝) 興福寺 は、平城京に遷都された710(和銅3年)に藤原不比等が創建した藤原氏の氏寺。仏師 運慶 は、 興福寺 を拠点に活動していました。 大和国を事実上支配し、 源頼朝 が鎌倉に武家政権を創設した以後も幕府は守護を置くことができませんでした。 五重塔 は730年(天平2年)の創建。高さ50.1メートル。 八坂の塔 (重要文化財) 京都東山のシンボル 八坂の塔 は、 法観寺 の五重塔。法観寺は 京都五山 の一つ 建仁寺 の末寺です。 高さ49メートル。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

東大寺南大門と清水寺仁王門前の獅子

イメージ
東大寺南大門 の金剛力士像の背面に置かれている石獅子。 1196年(建久7年)に造られたもので、もとは 中門 に置かれていたのだそうです。 大仏鋳造と大仏殿再建に尽力した 陳和卿 の作とも・・・ 清水寺 の 仁王門 前の狛犬は、 東大寺南大門 の狛獅子を真似て造られたのだといわれています。 もとは金属製だったようですが、戦時中に供出されてしまったため、石造のものが造られたのだそうです。 通常、右に阿形像、左に吽形像が置かれるようですが、両方とも阿形像。 東大寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/todaiji/todaiji.htm 清水寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/kiyomizudera/kiyomizudera.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 日本最古七福神 鎌倉との繋がりを求めて。

奈良:東大寺大仏殿

イメージ
東大寺金堂 (大仏殿) 東大寺 は、728年(神亀5年)、聖武天皇が建立した金鍾山寺がその始まりと伝えられています。 741年(天平13年)、国分寺(金光明寺)と国分尼寺(法華寺)建立の詔が発っせられたことにより、金鍾山寺が金光明寺となって、その後東大寺が創建されたのだそうです。 大仏殿前の八角燈籠 (国宝) 銅造盧舎那仏坐像 (奈良の大仏) 大仏殿に安置されているのは東大寺の本尊 「 銅造盧舎那仏坐像」 。 743年(天平15年)、聖武天皇は「大仏造顕の詔」を発します。 747年(天平19年)頃から始められたという大仏の鋳造は、752年(天平勝宝4年)に終了しています。 しかし、仕上げの作業は755年(天平勝宝7年)までかかったといいます。 創建当初の東大寺の伽藍 大仏殿 は、大仏鋳造が終わった後の758年(天平宝字2年)に完成しました。 創建当初の大仏殿は現在のものより大きく、東西には100メートルに達する七重塔が配されていました。 七重塔の相輪 しかし、1180年(治承4年)、 東大寺 は平重衡の 南都焼討 によって灰燼に帰してしまいます。 鎌倉期再建時の大仏殿 翌年から 重源 を大勧進として進められた再建は、1185年(元暦2年)に大仏の鋳造が終了し、1195年(建久6年)に 大仏殿 の 落慶供養 が執り行われました。 最大の外護者だった 源頼朝 も参列しています。 このときの大仏殿は創建当初のものと同じ大きさだったといいます。 江戸期再建時の大仏殿 その大仏殿も1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火によって再び焼失。 鎌倉期のときのように復興は進まず、大仏開眼供養が行われたのが1692年(元禄5年)、大仏殿落慶供養は1709年(宝永6年)になってからのことでした。 大きさも創建当初の3分の2だといいます。 虚空蔵菩薩 如意輪観音 脇侍の虚空蔵菩薩と如意輪観音、四天王像は 運慶 とその一族によって造立されたものだったといいます。 広目天 多聞天 源頼朝 も御家人に命じて造像の負担をさせたと伝えられています。 しかし、松永久秀の兵火によって焼失してしまいました。 持国天と増長天は頭部 その後、造像されたのが現在の諸仏ですが、持国天と増長天は頭部が残されて