北条泰時が亡くなった日~後鳥羽上皇の祟り?~
北条泰時の墓 三代執権 北条泰時 は1242年(仁治3年)6月15日没。 粟船御堂( 常楽寺 )に葬られました。 泰時 は1221年(承久3年)5月15日、 後鳥羽上皇 が二代執権 北条義時 に対して挙兵( 承久の乱 )すると幕府軍の総大将として出陣。 6月14日には 宇治川の戦い で朝廷軍を破って入京します。 その結果・・・ 7月13日、 後鳥羽上皇 は隠岐国へ配流され、1239年(延応元年)2月22日、配所地で崩御しています。 義時が亡くなったのが6月13日、 源頼朝 の恩を説いて御家人たちに出陣を命じた 北条政子 が亡くなったのが7月11日、京都進撃を主張した 大江広元 が亡くなったのが6月10日。 そして、 泰時 が亡くなったのが6月15日。 いずれの死も、 承久の乱 で朝廷軍が敗れ、 後鳥羽上皇 が配流された6月・7月に集中していたことから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆