(比叡山延暦寺)
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が開始され、護良親王は征夷大将軍に任ぜられますが、足利尊氏と対立し、尊氏に訴えられ逮捕されてしまいます。
1334(建武元年)11月、護良親王は鎌倉に送られ、足利直義(尊氏の弟)によって東光寺に幽閉されます。
鎌倉宮の本殿裏には護良親王が幽閉されたという土牢があります。
しかし、『太平記』の記述から、「土蔵のような建物に押し込められていたのではないか」と考えられています。
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1335年(建武2年)、鎌倉幕府滅亡後、信濃に逃れていた得宗北条高時の遺児時行が諏訪頼重に担がれて挙兵します(中先代の乱)。
鎌倉を守っていた足利直義は敗れて三河に逃れますが、鎌倉を出る際、淵辺義博に命じて護良親王を殺害させています。
伝えられている話では、親王は義博の刀を噛み折り、死んでもなお放さなかったことから、恐れをなした義博は親王の首を捨てて逃げたといいます。
捨てられた親王の首は、理智光寺の住職によって、鎌倉宮の東にある山の上に葬られたと伝えられています。
明治2年に創建された神社です。
護良親王が幽閉されたという東光寺があった場所と伝わっています。
明治天皇が護良親王を祀るために自ら創建した神社です。
東光寺は護良親王が殺害されたことで廃寺となったといわれ、その本尊薬師如来像は行基作で、大町にある薬師堂に安置されているものがそれだと伝えられています。
護良親王の忠臣です。
吉野城を拠点として幕府軍と戦っていた護良親王は、幕府軍に攻められ最期のときを覚悟したといいます。
しかし、村上義光は親王を落ち延びさせることを考え、親王の鎧を着て親王の身代わりとなって自刃したと伝えられています。
村上義光は鎌倉宮の境内社「村上社」に祀られています。
鎌倉宮には南方社という境内社もあります。
護良親王とともに鎌倉に送られてきた南方(みなみのかた)が祀られています。
護良親王と南方との間に生まれた子が、「苔の寺」として知られる大町の妙法寺を開いた日叡だと伝えられています。
(妙法寺)
(妙法寺)
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鎌倉時代後期の朝廷では、後嵯峨上皇の子後深草天皇(持明院統)と、その弟亀山天皇(大覚寺統)との間で皇位継承問題が発生していました。
(参考:後嵯峨上皇の子は鎌倉幕府六代将軍となった宗尊親王です。)
以後、持明院統と大覚寺統が順番で皇位に就くことになりますが、鎌倉幕府を滅ぼし「建武の新政」を始めた後醍醐天皇は大覚寺統から即位した天皇です。
後醍醐天皇の新政は、武士には批判が多く、大将として担がれた足利尊氏と対立するなど長続きしませんでした。
尊氏は、持明院統の光厳天皇(北朝)を擁立し、1336年(建武3年)11月7日、「建武式目」を制定して室町幕府が成立しました。
1338年(暦応元年・延元3年)には征夷大将軍に任じられています。
一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、京の北朝に対して南朝を開いています。
朝廷の南北朝対立は、三代将軍足利義満の代まで続きます。
鎌倉には、鎌倉宮のほかに、朝廷ゆかりの神社として、後醍醐天皇に仕えた朝臣日野俊基を祀った葛原岡神社があります。