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9月 18, 2022の投稿を表示しています

源頼朝像と源実朝像が伝えられる甲斐善光寺

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甲斐善光寺 は、 武田信玄 が 上杉謙信 との 川中島の戦い で 信濃善光寺 が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊( 善光寺如来 )を甲斐国に移してきたことに始まります(1558年(永禄元年))。 創建時の伽藍は焼失してしまいますが、1796年(寛政8年)に再建された 山門 や 金堂 は重要文化財に指定されています。 武田信玄 が信州から引きずってきたという銅鐘が吊るされています。 甲斐善光寺 の本尊は銅像阿弥陀三尊像。 信濃善光寺 の本尊の前立仏として鋳造されたものです。 源頼朝像 源実朝像 源頼朝 は1187年(文治3年)、焼失して礎石のみとなっていた 信濃善光寺 の再建に着手し、1197年(建久8年)には自らも参詣したと伝えられています。 甲斐善光寺 の 頼朝像 と 実朝像 は、 信濃善光寺 にあったもので、 武田信玄 が甲斐国へ移す時に持ち込まれたものです。 武田氏が滅びると、 善光寺如来 は各地を転々とした後、信濃に戻りますが、 頼朝像 と 実朝像 はそのまま甲斐に残されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

石和八幡宮~武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社:弓馬術の聖地~

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笛吹市の 石和八幡宮 は、武田信光が 鶴岡八幡宮 を勧請した社。 武田信光は、甲斐源氏五代当主。 甲斐武田氏の二代当主。 石和荘に館を構え、甲斐武田氏の礎を築きました。 石和八幡宮 は、弓馬術の聖地といわれています。 源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだと伝えられています。 石和八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

梶原家茂を殺害した土屋宗遠

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『吾妻鏡』によると・・・ 1209年(承元3年)5月20日、 源頼朝 の 法華堂 で 梶原景時 とその一族のための仏事が営まれました。 その理由は・・・ 御所内で怪異な現象が起きたり、夢のお告げがあったからなのだとか・・・ 『吾妻鏡』に不思議な現象が記録された後には何かが起こる! 八日後の28日、小坪から帰る途中の梶原家茂が和賀江の辺りで土屋宗遠に襲われ殺害されます。 家茂は 梶原景時 の孫。 宗遠は 土肥実平 の弟。 宗遠は家茂に年来の恨みを持っていたのだといいます。 家茂を殺害した後、すぐに御所へ行った宗遠は、和田常盛に太刀を預けます。 そして、侍所長官の 和田義盛 に預けられることに。 6月13日、宗遠が嘆願書を提出。 その内容は、 「頼朝様の時代から忠実に勤めてまりました。 一方、梶原家茂は謀反人・ 梶原景時 の孫です。 奉公者と不忠者を比較するのは難しいですが、太刀を差し出したからといって、何故、囚われの身とならなければならないのでしょう」 和田義盛 が将軍 源実朝 に取り次ぐと、嘆願書は筋道が立たないものでしたが、この日が頼朝の月忌にあたっていたため、特別に赦免されたのだとか。 和賀江嶋 梶原家茂が殺害されたのは和賀江の辺りは、現在の 材木座海岸 。 和賀江嶋 はこの時代にはありませんが、三代執権の 北条泰時 の時代に築かれた現存する我が国最古の築港です。 頼朝主従七騎の像 (湯河原町・城願寺七騎堂) 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い に大敗した 源頼朝 は、8月28日、主従七騎で真鶴岬から安房国へと渡るのですが・・・。 その時、頼朝に従っていたのが、 安達盛長 ・ 岡崎義実 ・新開忠氏・土屋宗遠・ 土肥実平 ・ 田代信綱 だったのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源実朝の前でアオサギを射て許された吾妻四郎助光

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吾妻四郎助光は、『吾妻鏡』に弓の名手として登場する人物。 1204年(元久元年)正月の御弓始めに和田胤長・榛谷重朝・ 諏方盛澄 ・ 海野幸氏 ・ 望月重隆 とともに射手に選ばれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1207年(建永2年)8月15日の 鶴岡八幡宮 の 放生会 でのこと。 警護を命じられていた吾妻助光ら数名の者が任務を怠るという事態が発生。 急遽代わりの者が手配されたが、将軍 源実朝 の出発は大幅に遅れ、舞楽の奉納が夜になってしまい、実朝は最後まで観覧することなく還御したのだといいます。 8月17日、この事件を重くみた 北条義時 ・ 北条時房 ・ 大江広元 ・ 三善善信 ・二階堂行光は、任務を怠った者を詰問します。 厳しく問いただされた者たちは、 「身内に不幸があって喪に服していた」とか「病気で体調を崩していた」という返答をしたのだといいますが・・・ 吾妻助光は理由を述べることができませんでした。 二階堂行光が 「武勇をかわれて採用されたにも拘わらず、その任務を怠るとは何事か」 と𠮟りつけると、助光は、 「晴れの儀式に鎧を用意しておりましたが、ネズミにかじられ破損してしまったので・・・」 と弁明。 行光は、 「晴れの儀式のために鎧を新調したのか? 警護の者がおしゃれをするものではない。 何故、先祖伝来の鎧を使用せず、新調の鎧を使おうとするのだ・・・」 と叱りつけたのだといいます。 そして、助光は出仕を止められることに。 それから3か月が経った12月3日、御所では酒宴の席が設けられ、 北条義時 と 大江広元 が参加していました。 そこへ一羽のアオサギがやってきて寝殿の上に留まります。 不快に感じた 実朝 は、射落とすように命じますが、あいにくそれだけの腕を持った者がいませんでした。 すると、 義時 が 「吾妻助光を呼び出しましょうか」 と申し上げると、 実朝 が承諾。 慌ててやってきた助光は・・・ 衣服を逆さまに着ていたようですが、狙いを定めて矢を放ちます。 一瞬、的を外したようにも見えたようですが、サギが庭先に落ちてきました。 助光の放った矢は、鷹の羽を使用したもので、とても強いものでした。 その矢

畠山重忠終焉の地

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1205年(元久2年)6月22日、 畠山重忠 は 北条時政 の謀略により二俣川で討たれました。 横浜市旭区内には、重忠ゆかりの史跡が多く残されています。 畠山重忠公碑 さかさ矢竹 首塚 愛甲季隆 の矢に当たって最期を遂げたという 重忠 。 首塚 は、重忠の首が祀られた場所と伝えられています。 首洗い井戸 首塚 の近くには 首洗い井戸 もあったようですが、今はありません。 矢畑・越し巻き この辺りには、北条軍の射た無数の矢が落下し、矢の畑のようだったのだといいます。 清来寺 清来寺 は、 重忠 の武勇を讃える絵巻が伝えられている寺。 薬王寺 薬王寺 は 重忠 の霊堂。 六ッ塚 (薬王寺) 六ッ塚 は、 重忠 をはじめとする一族郎党134騎が葬られたという六つの塚。 すずり石水跡 すずり石水 は、 重忠 が布陣した際に墨をすったという湧水。 駕籠塚 駕籠塚 は、 重忠 の内室といわれる菊の前の墓所。 菊の前は、戦場に駆け付けましたが、重忠が討たれたことを知って自害したのだといいます。 畠山重忠公遺烈碑 重忠 の功績を讃える碑。 『吾妻鏡』によると、 北条時政 から畠山謀反の話を聞かされた 北条義時 と 北条時房 は、 「 畠山重忠 は治承4年の 源頼朝 様の挙兵以来、忠義を尽くしています。 源頼朝様もその志を鑑みて、息子らを守護するよう丁寧に頼んでいます。 とりわけ、 源頼家 様の味方だったにも関わらず、 比企能員 との戦い( 比企能員の変 )では我々に味方して忠義を尽くしてくれたのは、親子の義理を重んじたからです(重忠の正室は時政の娘)。 それなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか・・・ もし、重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば後悔することになります。 事の真偽を確認してからでも遅くはありません」 と主張。 時政 は何も言えずに席を立ったのだといいます。 その後、 牧の方 の使いで北条義時館にやってきた牧時親は、牧の方の伝言を伝えます。 「 畠山重忠 の謀反はすでに明白。 将軍のため、世のために