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10月 29, 2017の投稿を表示しています

2017見逃せない鎌倉の紅葉スポット:一条恵観山荘

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一条恵観山荘 は京都西賀茂から移築された建物。 美しい庭園も復元されています。 今年の6月から一般公開が始まったばかりですので、紅葉の写真はありませんが・・・ たくさんの楓が植えられていますので、美しい紅葉になるはずです。 カフェ楊梅亭(やまももてい)では、一服しながら紅葉を楽しめそうです。 一条恵観山荘 https://www.yoritomo-japan.com/itijyo-ekan.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紅葉と抹茶を楽しむ鎌倉

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鎌倉で紅葉を楽しんだ後は、抹茶も楽しむ! 詳しい情報は画像をクリック・タップ。 浄妙寺喜泉庵 報国寺休耕庵 円覚寺洪鐘弁天茶屋 (茶屋から見える東慶寺) 円覚寺佛日庵 お寺カフェ安寧 (円覚寺如意庵) 明月院月笑軒 長谷寺海光庵 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 注目! 今年から一般公開が始まった 一条恵観山荘 。 美しい紅葉を見ることができるはずです。 一条恵観山荘カフェ楊梅亭 (やまももてい) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

浄妙寺の足利貞氏宝篋印塔

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浄妙寺 は、 足利義兼 の建てた極楽寺という真言宗の寺をその前身としています。 (※義兼の子義氏の時に臨済宗に改められたと伝えられています。) 義兼 は、 源義家 を祖とする源氏で、1180年(治承4年)、 源頼朝 が挙兵すると、早い時期に頼朝に従い、源氏の血筋として鎌倉幕府では高い地位に置かれていました。 足利貞氏の墓 浄妙寺 の本堂背後の墓地には、浄妙寺を中興した足利貞氏のものと伝わる 宝篋印塔 があります。 貞氏は、 報国寺 開基の足利家時の子で、 八幡太郎義家 から八代の子孫に当たります。 のちに鎌倉幕府に反旗を翻して室町幕府を開いた 足利尊氏 は、貞氏の次男です。 貞氏の 宝篋印塔 は、中央に宝生如来の浮彫が施されている珍しいものです。 貞氏は1331年(元弘元年)9月5日に亡くなったとされていますが、この宝篋印塔の基台の銘文には、「逆修塔」とあって、「明徳3年(1392年)」の銘があります。 「逆修塔」は生前に建てる供養塔ですので、もしかしたら・・・ この宝篋印塔は貞氏のものではないのかもしれません。 浄妙寺 https://www.yoritomo-japan.com/page042jyomyoji.htm

国宝:円覚寺舎利殿

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舎利殿 は 円覚寺 塔頭 正続院 の中心をなす建物。 舎利殿 鎌倉尼五山 の一つだった 太平寺 の仏殿が移築されました。 正続院 の昭堂(礼堂)で、仏舎利を祀っていることから「舎利殿」と呼ばれています。 太平寺跡碑 太平寺 は、1556年(弘治2年)、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入った際、住職の青岳尼を連れ去って妻としたことから、 北条氏康 (後北条氏)の怒りを受けて廃寺とされました。 その後、1563年(永禄6年)の大火で 正続院 の諸堂が焼失してしまったことから、氏康は 太平寺 の仏殿を移築して昭堂としました。 西御門の 来迎寺 裏のテニスコートが、太平寺のあった場所といわれています。 正続院 正続院 は、 円覚寺 を開いた 無学祖元 の塔所。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 舎利殿に安置されている仏舎利は、三代将軍 源実朝 が宋より請来したもので、 大慈寺 に安置されていましたが、1285年(弘安8年)、九代執権 北条貞時 が 円覚寺 に建てた祥勝院に移されました。 その後、1335年(建武2年)、 後醍醐天皇 の勅命により 夢窓疎石 が 建長寺 にあった無学祖元の塔所を祥勝院の場所に移しました。 それが 正続院 です。 大慈寺跡碑 かつて十二所には、 源実朝 が創建した 大慈寺 がありました。 宋に憧れていた 実朝 は、宋の能仁寺から仏舎利を請来し、 勝長寿院 に安置した後、 大慈寺 に納めたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉時代には宋の建築様式が輸入され、その代表的なものが 東大寺 の 南大門 に見られる「大仏様」と 円覚寺舎利殿 にみられる「禅宗様」です。 東大寺南大門 東大寺 の 南大門 は我が国最大の山門。 「大仏様」(だいぶつよう)または「天竺様」(てんじくよう)とも呼ばれる建築様式が採用されている国宝建築物です。 舎利殿 舎利殿 は、鎌倉の禅宗様建築では最古のもので、鎌倉の建造物では唯一国宝に指定されています。 普段は、 正続院 の門から先に立ち入ることは出来ませんが、11月に行われる 宝物風入 の時などに拝観することができます。 また、横浜にある 神奈川県立歴史博物館 には、 舎利殿 が

祇園女御の供養塔

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祇園女御は、晩年の白河法皇から寵愛をうけて権勢を持った女性。 その名は、 祇園社 の南東に屋敷があったことによるもので、白河にも住房があったことから白河殿とも呼ばれていたようです。 女御という位は、皇后・中宮につぐものだといいますが、女御の宣旨はなかったようです。 生年没、本名、素性などは不明。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1105年(長治2年)、祇園の屋敷の隣接地に阿弥陀堂を建立。 堂には丈六の阿弥陀仏が安置され、供養には院の殿上人がすべて参加するほど盛大だったのだと伝えられています。 1111年(天永2年)には、 仁和寺 内に威徳寺を建立。 晩年は威徳寺の住坊に住んで、法皇の冥福を祈ったのだと伝えられています。 仁和寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 京都祇園堂 かつては、女御の住居跡とされる場所に祇園女御塚があって触れると不幸になるという伝説があったのだといいます。 現在は京都祇園堂(阿弥陀堂京都祇園寺)が建立され、その前に女御の供養塔が置かれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 厳島神社 (京都御苑) 『平家物語』によると、白河法皇は、懐妊した祇園女御を平忠盛に下し、生まれた子が女子ならば自らが育てることとし、男子であったなら忠盛が育てるように命じたのだといいます。 そして、生まれたのは男子。 この子が平清盛なのだとか。 京都御苑の 厳島神社 は、清盛が母の祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請し、摂津国兵庫津の築島(経が島)に社殿を建てたのが始まりなのだと伝えられています。 忠盛燈籠 (八坂神社) 女御の屋敷へ向かう白河法皇と平忠盛の伝説が残された 八坂神社 の 燈籠 。 八坂神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

源義経の大工の馬事件

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1181年(養和元年)7月20日、 鶴岡八幡宮 の社殿の 上棟式 が行なわれます。 鶴岡八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源頼朝 は社頭の東方の設置された仮屋に着座。 御家人らがその南北に座しました。 そして、大工たちに褒美の馬が与えられます。 このとき、 頼朝 は馬を引く役を弟の 義経 に命じました。 しかし、 義経 は「その場合、下の手綱を引く者がいません」と断ります。 「上の手綱を頼朝の弟である義経が引いてしまうと、下の手綱を引く身分の者がいない」ということのようです。 この 義経 の言動に対して 頼朝 は、 畠山重忠 や佐貫広綱の名を出して「身分の低い者の役目だと思って断るか」と激怒したのだといいます。 それに恐怖した 義経 は、二頭の馬を引きます。 一頭目の下の手綱は 畠山重忠 、二頭目の下の手綱は佐貫広綱が引きました。 その後には、 土肥実平 、工藤景光、 仁田忠常 、佐野忠家、宇佐美実政らが引いて式典を終えています。 「たとえ兄弟であっても、義経は御家人の一人にすぎない」ということを認識させた事件となりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆