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5月 15, 2011の投稿を表示しています

龍口寺の仏舎利塔

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藤沢市片瀬の 龍口寺 は、 日蓮 の 龍ノ口法難 の霊跡に建てられた寺院です(参考: 龍ノ口刑場跡 )。 昭和45年には、 龍ノ口法難 700年を記念して裏山に仏舎利塔が建立されました。 中国遼陽市に日本山妙法寺を建立した藤井日達上人によって建立されました。 金色の釈迦如来像が安置されています。 仏舎利塔からは湘南の海が見えますが・・・ ビルが多くて・・・ 建立された当時はいい景色だったでしょうね。 龍口寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/ryukoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

七里ヶ浜のハマヒルガオ

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七里ヶ浜 は、 稲村ヶ崎 から 小動岬 までの約2.9㎞の海岸です。 ハマヒルガオは、海岸の砂浜に咲く花です。 江ノ電 の 「鎌倉高校前駅」 の前面の浜に多く群生しているようです。 海岸沿いを走る 江ノ電 の線路の脇にも咲いていました。 稲村ヶ崎 の極楽寺川の河口付近にも群生しています。 ハマヒルガオ~鎌倉:七里ヶ浜~ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/hamahirugao.htm 七里ヶ浜 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/umi-sitirigahama.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡

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鎌倉幕府を開いた 源頼朝 は、「清和源氏」の一流の「河内源氏」です。 「清和源氏」とは、清和天皇の皇胤が「源」姓を賜ったことからはじまる氏族です。 そのなかでも、貞純親王の子経基の子孫が栄えました。 ~河内源氏の祖源頼信~ 「河内源氏」は、東国の武士団を支配下に置き、河内国を本拠とした源頼信を祖としています。 頼信が1028年(長元元年)に起こった平忠常の乱を平定したことにより、「河内源氏」が東国に勢力を持つようになります。 ~源頼義~ 頼信の子 頼義 が、平直方から鎌倉の屋敷を譲り受けたことにより、鎌倉は東国支配の拠点となりました。 元八幡(由比若宮) 1063年(康平5年)、 源頼義 による創建です。 前九年の役の勝利に感謝するために 石清水八幡宮 を勧請したといいます。 https://www.yoritomo-japan.com/page135motohatiman.htm 鎌倉時代に執権の地位を世襲した 北条氏 は、平直方の子孫と称していたといいます。 頼義 は、直方の娘を娶り、この2人からは 義家 や 義光 が生まれています。 ~源義家~ 頼義 の子 義家 は、 石清水八幡宮 で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれました。 鎌倉の中心部にある 源氏山 は、 義家 が後三年の役へ出陣する際、この山に源氏の白旗を掲げたことからそう呼ばれるようにになったと伝えられています。 甘縄神明神社 平直方の娘と結婚した 源頼義 は、 この神社に祈願して子の 義家 を授かったと伝えられています。 https://www.yoritomo-japan.com/page136amanawa.htm ~源氏の衰退~ 義家 の長子義親は反乱を起こし隠岐に流され、義家を継いだ四男義忠が暗殺されるなど、一族間の争いもあって源氏は衰退します。 暗殺された義忠の跡は、義親の子為義が継ぎます。 ~源義朝~ 為義の子 義朝 は京で生まれますが、幼少期に東国に下向し、 上総氏 の庇護を受けて成長したといわれています。 そのため「上総御曹司」と呼ばれていたそうです。 一説には、為義の嫡子ではなかったともいわれていますが定かではありません。

初恋~湘南の海:七里ヶ浜~

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七里ヶ浜 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

水戸御殿と呼ばれた英勝寺

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英勝寺 は、徳川家康の側室だった英勝院が先祖太田道灌の屋敷跡に建てた尼寺です(1636年(寛永13年))。 現在では、鎌倉で唯一の尼寺となりました。 仏殿(宝珠殿) 仏殿 は、1636年(寛永13年)の建立と伝わり、国の重要文化財です。 英勝院の一周忌には、徳川頼房が 鐘楼 を、頼房の子で讃岐高松藩主の松平頼重が 山門 を建立したのだといいます。 唐門 や徳川光圀建立の 祠堂 も同じ頃のものと考えられています。 鐘楼 山門 唐門 祠堂 すべて国の重要文化財に指定されている建物です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 水戸藩初代の徳川頼房の養母だった英勝院は、頼房の息女玉峯清因(小良姫(さらひめ))を開山に迎えています。 以後、水戸家の姫君が住持として迎えられ「水戸御殿」とも「水戸さまの尼寺」とも呼ばれてきました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~池子に寺領420石~ 逗子市池子の東昌寺 英勝寺 は、三浦郡池子村に寺領420石を与えられました。 池子の 東昌寺 は、鎌倉の葛西ヶ谷にあった 東勝寺 がそのはじまりとされている寺ですが、池子が 英勝寺 の寺領となったことから、 英勝寺 に遠慮して寺名の「勝」の字を「昌」の字に改めたといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 池子神明社 源頼朝 が勧請したと伝わる池子の 神明社 。 池子が 英勝寺 の寺領となったことから、 英勝寺 から神輿が贈られたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源氏山~ 太田道灌の首塚 英勝寺 は背後の 源氏山 源氏山 の山服には英勝院の先祖 太田道灌の首塚 があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  ~大名屋敷並の扱いだった英勝寺~ 英勝寺 の尼君は、材木座の 光明寺 の住職に学んでいたそうです。 光明寺 へ向かう尼君の行列は、まるで大名行列のようだったといいます。 また、材木座の 乱橋 付近では、 英勝寺 の召使3人が喧嘩をし縄で縛られるという事件があったそうです。 しかし、江戸表に訴えるという事件にまで発展し、召使を縛った8名の者が謝罪したと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  ~姫御殿跡~ 姫御殿跡 英勝寺の 竹林 は代々の就職の住まいがあった場所。

英勝寺の袴腰付鐘楼

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英勝寺 の袴腰付の鐘楼は、水戸藩初代藩主の徳川頼房が、 英勝寺 を建てた英勝院の一周忌に建立したものといわれています。英勝院は頼房の養母でした。 下層の末広がりになっている部分を「袴腰」と呼びます。 神奈川県でも珍しい形式で県の重要文化財に指定されています。 1643年(寛永20年)の建立といわれています。 鐘楼の梵鐘には、林羅山(道春)の銘文が刻まれ、末尾には「寛永二〇年五月吉日 法印道春撰 治工大河四郎左衛門吉忠」とあるそうです。 林羅山は、徳川家康に認められた江戸時代初期の儒学者。 この梵鐘は、関東大震災で鐘楼が倒壊した後、横須賀市の福本寺に移されていたそうですが、昭和32年に鐘楼が復元された際、福本寺から返却されたということです。 英勝寺 は、英勝院の先祖太田道灌の屋敷跡で、1636年(寛永13年)に仏殿が建立されました。 英勝院は1642年(寛永12年)に亡くなりますが、翌年の一周忌には、山門、鐘楼、祠堂、唐門が整えられたものと考えられています。 本年5月16日には復興された山門の落慶法要が行われました(参考: 復興された英勝寺山門 )。 英勝寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137eishoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

開館60周年~神奈川県立近代美術館~

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鶴岡八幡宮 の 平家池 の畔にある 神奈川県立近代美術館 では、開館60周年を記念して「近代の洋画 ザ・ベスト・コレクション」が開催されています。 高橋由一の「江の島図」 日本で最初の洋画家ともいわれる高橋由一。 由一が描いた 江の島 には橋がありません。昔はこのようにして 江の島 に渡ったのですね。左に見える小さな島は「天女出現伝説」の 聖天島 でしょうか。 岸田劉生の「麗子像」 岸田劉生は大正から昭和初期の洋画家です。童話図の「麗子立像」は知られています。 この他、材木座の 啓運寺 をアトリエとした黒田清輝の絵も展示されています。 神奈川県立近代美術館 は、日本で初めての公立近代美術館です。1951年(昭和26年)に開館しました。 「近代の洋画 ザ・ベスト・コレクション」は、10月10日まで開催されています。 詳しくは・・・ http://www.moma.pref.kanagawa.jp/index.html 平家池 のキショウブが見頃です。 神奈川県立近代美術館 https://www.yoritomo-japan.com/kindai-bijyutukan.htm 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html