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徳川家康が羽柴秀吉に贈った茶入~初花肩衝~

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初花肩衝 (はつはなかたつき)は、楢柴肩衝(ならしばかたつき)・新田肩衝(にったかたつき)とともに天下三肩衝と呼ばれた茶入。 織田信長に献上され、嫡男・信忠に譲られますが、1582年(天正10年)の 本能寺の変 後、 徳川家康 が手に入れます。 そして、家康は賤ヶ岳の戦いの戦勝祝として羽柴秀吉に贈りました。 千利休が博多の豪商 ・島井宗室に送った手紙にもそのことが記されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部と筑紫の君

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紫式部 と 筑紫の君 は従姉妹。 同時期に、紫式部は姉を亡くし、筑紫の君は妹を亡くしました。 そのため、二人は姉妹のように思いあう約束をし、「姉君」「中の君」と呼び合っていたのだといいます。 やがて 筑紫の君 は、父の任官に伴って肥前国へ下向。 紫式部 も父が任官に伴って 越前国 へ下向。 それでも手紙や和歌のやり取りをしていました。 しかし・・・ 筑紫の君 は、 紫式部 と再会することなく肥前国で亡くなっています。 「いづかたの雲路と聞かば尋ねましつら離れたる雁が行方を」 (姉君は雲に消えていった・・・) 紫式部像 (越前市・紫式部公園) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

60年に一度の円覚寺洪鐘祭~令和5年10月29日開催~

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円覚寺 の国宝 「洪鐘」 は、九代執権北条貞時が七日七夜 江の島弁財天 に参籠して鋳造が成功したというもの。 貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して 円覚寺 に弁天堂を建立し、 江の島 で弘法大師が刻んだと伝えられる弁財天を円覚寺の鎮守として祀ったのだといいます。 そのため、江の島の弁財天と円覚寺の弁財天は夫婦弁天と呼ばれ、61年目ごと(60年に一度)に行われる 「洪鐘祭」 (おおがねまつり)で出会うことになっています。   洪鐘祭 は、2020年(令和2年)、庚子年の10月17日(土)・18日(日)に開催予定でしたが・・・ 新型コロナウイルス感染拡大防止のため延期となっていました。   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日

長谷寺へ朝参り~鎌倉の四万六千日~2023/08/10

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長谷寺 は 坂東三十三箇所 第四番札所。 坂東三十三箇所は、 源頼朝 の 観音信仰 と、 源平の戦い で西国に赴いた武者たちが、西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期に開設につながったのだといわれています。 8月10日は 四万六千日 。 この日、観音さまにお参りすると46000日分の功徳が得られるといいます。 46000日÷365日=約126年 四万六千という数は「米1升が4万6千粒ある」ということに由来すると言われ、これを「人間の一生」にかけているのだとか・・・。 もとは京都の 清水寺 などで行われている「千日詣」ともいわれています。 徳川家康 は、 関ヶ原 に出陣する際に長谷観音を参詣しているのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日

徳川家康が布陣した小牧山~小牧・長久手の戦い~

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小牧山 1584年(天正12年)の 小牧・長久手の戦い で 徳川家康 が陣を敷いたのは、織田信長が美濃攻略のために城を築いた 小牧山 。 たった4年で廃城となった 小牧山城 だが、近年の研究では、簡易な城ではなく、四方を石垣で囲んだ本格的な城であったと考えられている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「八幡宮」の額は藤原行成の書~石清水八幡宮:光る君へ~

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石清水八幡宮一の鳥居の額 石清水八幡宮 の 一の鳥居 に掲げられている額は、 一条天皇 の勅により 藤原行成 が書いたものを・・・ のちの1619年(元和5年)、 松花堂昭乗 が行成の筆跡のとおりに書写したものだという。 鶴岡八幡宮本宮楼門の額 藤原行成 は、平安時代の能書家で「三蹟」の一人。 書道世尊寺流の祖。 藤原道長 に仕え、一条朝で活躍した四納言の一人にも数えられている。 鶴岡八幡宮 の 本宮楼門 の額も行成の字を写したものなのかもしれない。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆