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12月 5, 2010の投稿を表示しています

富士川の戦いとは・・・

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1180年(治承4年)8月17日、 伊豆国 で目代の 山木兼隆 を討ち取った 源頼朝 は、相模国に向けて進軍します。 しかし、 石橋山の戦い で敗北し、海路で 安房国 へと逃れました。 途中の海上で、偶然にも 三浦義澄 らと出会ったともいわれています。 房総半島で、 千葉常胤 、 上総介広常 が従うと、 畠山重忠 らの武蔵国の武将もつぎつぎに従い、大軍をもって 鎌倉入り を果たしました。 そして間もなく平維盛を総大将とする頼朝討伐の大軍が、駿河国まで迫ってきます。 さて、 源頼朝 の挙兵が都に到達したのはいつの事だったのでしょう。 頼朝 が挙兵してからすぐに「頼朝討伐軍」が派遣されていたら、 頼朝 は大軍を率いて鎌倉に入ることができたのでしょうか。 都に頼朝挙兵の報が届いたのは9月の初めだと言われています。 右大臣九条兼実は日記『玉葉』に・・・ 「謀叛の賊義朝の子で長年伊豆国に流罪とされていた者が、最近は悪事をこととし、知行国主の使者を攻撃したうえ、伊豆・駿河両国を横領してしまった。昔の平将門のように謀叛しようというのであろう」 と記されています。 9月5日、平維盛を総大将とする討伐軍が組織されます。 しかし、準備が進まず、9月22日にようやく福原を出発したといいます(当時、平清盛によって都が福原に遷されていました。)。 そして平安京の出発の時をめぐって、日が悪いとか、忌むとか忌まないとかの議論で7日間が費やされ、平安京を出発したのが9月末でした。 討伐軍が無駄な時間を費やしている間・・・、 ◎ 源頼朝は房総で体勢を立て直した。 ◎ 木曽義仲は信濃国で挙兵し信濃国を収め、上野国へ進出。 ◎ 甲斐国の武田信義が甲斐国、信濃国の諏訪を征服。 という急展開をみせています。 全国の源氏に令旨を発した「以仁王の生存説」までが乱れ飛ぶようになっていました。 討伐軍は東に下るほどに確かな情報を入手するようになります。各国での謀叛は、討伐軍内部に大きな動揺をもたらしたことと思います。 また、実説とともに虚説まで飛び交っていたので、思うような徴兵ができず、糧食の調達もできない状況でした。 (この年はひでりによる凶作で食料不足だったといいます。) そして、10月13日、駿河国入った

笛田から鎌倉山の散策

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笛田には、日蓮宗の 佛行寺 や 三嶋神社 があります。そして、それぞれの背後を囲むようにある山が 鎌倉山 です。 おそらく笛田は、 県道32号線(藤沢鎌倉線)の深沢の交差点を起点にするとわかりやすいと思います。 藤沢駅や鎌倉駅からバスが出ています。 湘南モノレールの「湘南深沢駅」も近くにあります。 深沢の交差点を湘南記念病院の方へ入ります。 しばらく歩くとこんな景色になります。 そして庚申塔が見えると 佛行寺 がすぐそこです。 佛行寺 山号を笛田山という日蓮宗の寺です。 仏性院日秀の開山と伝えられています。 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page139butugyoji.htm 源太塚 佛行寺 背後の山にあるかなり大きな塚です。 梶原景季の片腕が埋められていると伝えられています。 景季は、父景時とともに駿河国清見関で討死しました。 (参考: 梶原景時の変 ) そもそも、 佛行寺 は、 「景季の死を悲しんで自殺した妻信夫(しのぶ)の霊を慰めるために建てられた」 と伝えられています。 源太塚から見える 鎌倉山 には、「しのぶ塚」があります。 三嶋神社 佛行寺 の南の山の中腹にある笛田の鎮守です。  正月三が日には 佛行寺 の僧によって経があげられ、 1月15日には題目を唱える習わしがあるという神社です。   http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page139misima.htm 夫婦池(めおと池) 三嶋神社 からさらに笛田の奥へ入っていくと、灌漑用に造られた夫婦池があります。 平成21年4月に夫婦池公園が開園しました。 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/fufuike.htm  夫婦池から 鎌倉山 に上ります。 まずは、「しのぶ塚」を目指します。 夫婦池からの坂を上がっていくと・・・ この交差点に出ます。 交差している道は常盤から上がってきた道です。 この交差点に鎌倉山動物病院の看板があります。 「しのぶ塚」はこ

梶原と寺分の散策

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梶原という地名は、かなり古くから呼ばれていて、平安時代の辞書『和名類聚抄』にも「梶原郷」と記されています。 さまざまな説がありますが、鎌倉権五郎景政を祖とする梶原氏が出た地と考えられています。 寺分は、「大慶寺分」という大慶寺の寺領だった土地で、「大慶」という文字を省略して「寺分」となったといわれています。 湘南モノレール「湘南深沢駅」から大船方面へ歩くと、 高野山真言宗の 等覚寺 と 東光寺 の案内板があります。 指示どおりに進むとすぐに道祖神が置かれています。 そしてまた案内板 等覚寺 「出世子育て地蔵」で知られる高野山真言宗の寺です。 山号の休場山は、梶原景時が休んだ所だからだと伝えられています。 境内には、山崎合戦(洲崎合戦)で死んだ者の供養塔が並べられています。 https://www.yoritomo-japan.com/page139tokakuji.htm ~新田義貞の鎌倉攻め~ 1333年(元弘3年)、鎌倉に攻め入ろうとする新田義貞軍と、それを防ごうとする赤橋守時軍は洲崎で激戦を繰り広げました。湘南モノレール下の道には「 洲崎古戦場跡 」の碑が建てられています。右の写真は「 陣出の泣塔 」です。合戦で死んだ者の供養塔であるともいわれています。 大慶寺 案内板までもどって 東光寺 方面に歩くと臨済宗の大慶寺があります。 等覚寺 は梶原ですが、ここは寺分という地名になります。 大休正念の開山と伝えられ、関東十刹に入る寺院でした。 現在の大慶寺は、塔頭の一つ方外庵が残ったものです。 『新編相模国風土記稿』には、 「古は大慶廃寺の域内たりしを以て、大慶寺分と云ひしを・・・」 と記され、 「大慶寺分」という寺領が、「寺分」という地名の由来と伝えています。 https://www.yoritomo-japan.com/page139daikeji.htm 駒形神社 寺分の鎮守です。 古くより、農業の神として崇められ、治承年間、この辺りを領していた大庭景親は、 「天候不順が止むよう祈願した」と伝えられています。 https://www.yoritomo-