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8月 19, 2018の投稿を表示しています

天神画像が降ってきた日

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荏柄天神社 1104年(長治元年)8月 25日 、荏草郷といわれた土地に、にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきました。 神験を恐れた里の人々は、その場所に社殿を建て、画像の降り立った地を踏むことのないように銀杏の木を植えて御神木とし、その画像を祀ったとのだそうです。 大銀杏 荏柄天神社 の祭神は 菅原道真 。 845年(承和12年)6月 25日 誕生。 901年(延喜元年)正月 25日 太宰府へ左遷。 903年(延喜3年)2月 25日 太宰府で病死。 25日は天神さまの縁日。 荏柄天神社 https://www.yoritomo-japan.com/page041egaratenjinjya.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

新田の八幡宮と称された狭山八幡神社

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1333年(元弘3年)5月、鎌倉幕府打倒の挙兵をした新田義貞が戦勝を祈願したという社。 祭神は、応神天王(誉田別命・ほんだわけのみこと) 狭山市入間川3-6-14 狭山市駅から徒歩7分 狭山八幡神社の先には、 木曽義高を祀る清水八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page140kisoduka.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉幕府滅亡後、伊豆に移された東慶寺の鐘

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東慶寺の鐘 現在の 東慶寺の鐘 は、1350年(観応元年)に鋳造されたもので、もとは 補陀洛寺 の鐘でした。 では、それ以前の鐘は・・・ 1332年(元徳4年)に14代執権・ 北条高時 の母・覚海円成が鋳造させた鐘がありました。 しかし、1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉幕府が滅亡すると、覚海尼は残された子女とともに北条氏の拠点だった伊豆国北条に移り住みます。 その時、東慶寺の鐘も伊豆へ運ばれたと考えられているようです。 伊豆に移り住んだ覚海尼は、 源頼朝 も暮らした 北条氏館 の跡に尼寺の円成寺を建立。 円成寺は、江戸時代まで続き、東慶寺の鐘も廃寺となるまで円成寺にあったそうですが、その後、徳川幕府の代官だった江川氏の菩提所 本立寺 へ移されました。 本立寺の鐘 本立寺は平安時代から続く江川家の菩提寺。 鐘には、最初に「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘」と刻まれ、文末には「壬申元徳二二年結制後十一日」、「大檀那菩薩戒尼 円成」と刻まれています。 壬申元徳は西暦1332年。 後醍醐天皇は1331年に「元徳」から「元弘」と改元していますので、本来「元徳」ではなく「元弘」を使うのでしょうが、鎌倉幕府は「元徳」を使い続けていたのだそうです。 鐘に刻まている元徳のあとの二二年ですが・・・ 「元弘2年」という意味と、もうひとつ二を書き加えることで「四」と読ませ「元徳4年」という意味としたのではないかという説も・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条氏邸跡(円成寺跡) (伊豆の国市) 本立寺 (伊豆の国市) 東慶寺 (鎌倉) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鶴岡八幡宮例大祭ポスター

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鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm

道元鎌倉御行化顕彰碑とサルスベリ2018/08/22

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我が国曹洞宗の開祖・道元は、1248年(宝治2年)、五代執権北条時頼に招かれて、半年の間、教化のため鎌倉に滞在しています。 ただ、時頼の寺院建立の要請は断り、永平寺に帰りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の伝説が残された遅の井の滝~善福寺公園~

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遅の井の滝 遅の井の滝は、杉並区善福寺の善福寺池畔にある湧き水。 源頼朝 の伝説が残された湧き水を滝として復元したもの。 1189年(文治5年)に 奥州征伐 を行った頼朝。 その際、遅野井の地に宿営し、井草八幡宮で戦勝を祈願したそうです。 そして、無事に奥州征伐を終えて再び遅野井に戻ってきますが、折からの干ばつで軍勢は渇きに苦しみます。 頼朝は、弓で各所を穿ちますが、水の出が遅く、弁財天に祈って、やっと水を得ることができたのだとか。 遅野井(おそのい)は、現在の杉並区善福寺周辺の古名ということですが、「水の湧き出るのが遅い」ということに由来している名とも言われているようです。 遅野井市杵島神社 善福寺池の島に鎮座する社。 遅の井の滝の真ん前あります。 1197年(建久8年)に 江の島弁財天 を勧請して創建されたのだそうです。 善福寺池 善福寺池は、武蔵野三大湧水池の一つ。 かつて池のほとりにあった善福寺が名の由来。

八幡太郎義家氏神~鎌倉最古の甘縄神明神社~

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甘縄神明神社 は710年(和銅3年)の創建。 鎌倉最古の神社と言われ、源氏ゆかりの社。 1036年(長元9年)に相模守に任じられた河内源氏二代棟梁の 源頼義 は、その在任中に鎌倉を本拠としていた平直方の娘を妻とし、直方から鎌倉の地を譲り受けます。 この時から鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となりました。 八幡太郎義家氏神 頼義 の嫡男・ 義家 は、 甘縄神明神社 に祈願して授かったのだと伝えられています。 義家 の誕生年は諸説あるようですが、1039年(長暦3年)が有力のようです。 京都の 石清水八幡宮 で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれました。 源義家朝臣再建 社伝によると、1063年(康平6年)には 頼義 が、1081年(永保元年)には 義家 が修復を施しているようです。 『吾妻鏡』によると、 義家 の子孫 頼朝 も崇敬し、1186年(文治2年)10月24日には社殿の修理を施し、荒垣と鳥居を建てているようです。 甘縄神明神社からの相模湾 今日から 「かまくら長谷の灯かり」 が始まります。 甘縄神明神社もライトアップされます。 8月20日(月)~8月26日(日) 甘縄神明神社 https://www.yoritomo-japan.com/page136amanawa.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夏休み鎌倉計画!