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武田勝頼の歯髪が葬られた法泉寺~甲府五山~

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法泉寺 は、武田勝頼の菩提寺。 武田勝頼の墓 武田勝頼は 武田信玄 の四男。 1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍の甲州征伐により、天目山の 田野 で自害。 京都に運ばれた首は一条通の辻に晒された後、信玄や勝頼が帰依していた 妙心寺 の南化玄興がもらい受けて妙心寺に葬ったのだといいます。 法泉寺 には、快岳周悦が南化玄興から譲り受けた歯髪が葬られたのだと伝えられています( 首級牛蒡の伝説 )。 法泉寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

武田勝頼が築いた新府城

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1575年(天正3年)の 長篠の戦い で織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した武田勝頼は、領国立て直しのため、甲府の 躑躅ヶ崎館 からの移転を計画。 1581年(天正9年)、韮崎に 新府城 を築いて居城としました。 しかし、その翌年、織田・徳川連合軍による 甲州征伐 が開始され、勝頼は新府城に火を放って逃亡することになります。 未完の城だったといわれていますが、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったようです。 新府城跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

徳川四天王の石像~岡崎市中央緑道~

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徳川四天王は、 徳川家康 の側近として仕え、大きなな功績を立てた四人の武将。 家康が誕生した岡崎市の中央緑道には、徳川四天王の像が置かれています。 酒井忠次 徳川四天王の中で最年長。 徳川家康 より15歳年上。 本多忠勝 初陣から57回の戦を経験したというが、傷一つ負わなかったという 本多忠勝 。 榊原康政 本多忠勝 と同い年の榊原康政。 井伊直政 徳川四天王の中で最も若い 井伊直政 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

三河一向一揆と本多俊正・本多正信・本多正重

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本多俊正は、松平家の重臣・酒井忠尚に仕えていた武将。 1563年(永禄6年)、酒井忠尚が松平家康( 徳川家康 )に対して謀反を起こして挙兵すると、俊正は忠尚に従います。 同年、 三河一向一揆 が起こると、俊正の次男・ 正信 と四男・正重は、仕えていた家康に反旗を翻して一揆方に加担。 翌年1月、一揆が鎮圧されると、正重は家康に帰参しますが、正信は出奔。 俊正は、一揆鎮圧後も忠尚とともに上野城に拠って9月まで戦い、戦後、家康に帰参して鷹匠となったのだといいますが、その後は不明。 出奔した正信は、のちに家康に帰参し、江戸幕府では幕政を主導するまで出世。 正重は、数々の戦で功をあげ大名となりました。 参考までに、俊正の長男・青野重貞は家康方に付いて一揆鎮圧のため働いています。 酒井忠尚は、戦後、行方不明。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

三河一向一揆の中心人物・空誓

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  1563年(永禄6年)に西三河で起こった 三河一向一揆 の中心的人物は・・・ 野寺御本坊とも呼ばれた本證寺十代の空誓(くうせい)。 空誓は、 本願寺 中興の祖といわれる蓮如の曾孫。 一揆には、家康の家臣の多くが反旗を翻し、家康を窮地に追い込みましたが・・・ 翌年、鎮圧されています。 後に空誓は、家康に接近し、本願寺教団の三河国内での地位確立に尽力しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆