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溺れかけた大串重親を岸に投げ上げた畠山重忠~宇治川の戦い~

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1184年(寿永2年)1月20日、 木曽義仲 追討のため、 源義経 に従って 宇治 を攻めた 畠山重忠 。 『平家物語』によると・・・ 宇治川は、白波がたち、瀬枕では滝のような音を立てて、激しく流れていた。 霧が深く立ち込めた早朝、義経は、一口(いもあらい:芋洗)へ向かうか、河内路に迂回するか、それとも水が引くのを待つか、思案していた。 すると重忠が、 「この川は琵琶湖から流れ出ているので、水が引くことはありません。 去る治承の合戦(宇治平等院の戦い)で、17歳の足利忠綱はこの川を渡りました。 先ずは、重忠が瀬踏みしてみます」 と言って、五百騎余りを並べて水の深さを調べたのだという。 その間、 平等院 方面から駆けてきた 梶原景季 と 佐々木高綱 が先陣を争って宇治川へ入っていく。 この先陣争いでは、高綱が勝ち、  「宇多天皇より九代の後胤、近江国の住人、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣!」と名乗っている。 その後、重忠も五百騎余りを川にうち入れて渡っていった。 しかし、向こう岸から山田次郎が放った矢が重忠の馬の額を深く突き刺した。 弓を杖の代わりにして馬から降りた重忠は、兜の手先まで押し寄せてくる波をもろともせず、川底に潜って、向こう岸までたどり着いた。 そして、岸に上がろうとしたとき、背中を力強く掴む者がいた。 重忠が「誰だ」と問うと「重親です」と答えた。 さらに「大串か」と問うと「そうでございます」と答えた。 大串重親は、重忠の烏帽子子。 「あまりに水の流れが速く、馬を川中で押し流されてしまいました。 力が及ばず、重忠様にくっついておりました」 と語る大串に重忠は、 「お前たちのような者は、いつまでも重忠に助けられるのだな」 と言って、大串を掴んで岸の上に投げ上げた。 放り投げられた大串は・・・ 立ち上がり、太刀を抜いて額にあて、大声を上げて、 「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣!」 と名乗ったのだという。 敵も味方もこれを聞いて、いっせいにどっと笑ったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大串重親(おおぐししげちか)は、武蔵国大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本拠とする武将。 1189年(文治5年)の 奥州合

越後国の女武者:板額御前

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1201年(正治3年)6月28日、越後国の城氏の反乱で藤沢清親が捕虜にされた 板額御前 が鎌倉に到着。 そのことを聞いた 源頼家 がその姿を見てみたいと言い出したため、清親が御所へ連れて行った。 頼家は御簾の中から見たが、侍所に控えていた 畠山重忠 ・ 小山朝政 ・ 和田義盛 ・ 比企能員 ・ 三浦義村 らの座の中を通り、頼家の御簾の前に進み出た板額御前は、いっこうにへつらう顔つきはしなかったのだという。 その態度は、居並ぶ勇猛な武将と比べても匹敵するものだった。 ただ、顔は中国の陵薗の妾ほどに美人だたのだとか。 その翌日、甲斐源氏の一族で浅利義遠が、板額御前を預かりたいと申し出た。 頼家が 「この女は比べるものがないほどの国賊である。それを望むとは何かわけがあるのだろう」 と問うと、 義遠は、 「彼女との間に力強い男子を儲けて、朝廷や幕府に忠義を尽くさせたい」 と答えた。 頼家は、常人が望むようなことではないと笑いながら許可したのだという。 板額御前 は、浅利義遠の妻となり、甲斐国で生涯を過ごしたのだと伝えられている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

城資盛と板額御前の反乱

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1201年(正治3年)4月2日、越後国からの飛脚が鎌倉に到着し、城長茂の甥の城資盛が謀叛を起こし、佐渡・越後の軍兵がこれを攻めたが資盛の猛威に陣を破ることができなかったことが報告された。 翌日、 北条時政 ・ 大江広元 ・ 三善善信 が協議し、出家して上野国磯部の郷に篭居している 佐々木盛綱 (西念)を大将として鎮圧にあたることとする。 盛綱への御教書(命令書)は、 和田義盛 が受け取り、伝令を上野国へ遣わしている。 4月5日、義盛の伝令が上野国に到着。 盛綱は、屋敷の門外にいたが、御教書を読むと、屋敷に戻ることもなく、すぐに馬に乗って越後国へ向かったのだという。 家の者が追いついて 「軽はずみな行動では?」 と問うと 「その昔、天慶年中に平将門が反乱を起こした時、追討使となった藤原忠文は、宣旨が下されたとき食事をしていたが、箸を投げ捨てて参内し、刀を拝領して直ちに追討に向かったのだと聞いている。 この行動こそが勇士の心がけることだ」 と答えたのだとか。 4月8日には、城氏の勢力圏内である鳥坂口に到達した盛綱は、すぐに資盛に使者をたてて御教書の趣旨を伝えると、資盛は「こちらへ出向いていただき、雌雄を決したい」と返答したのだという。 その話を聞いた越後・佐渡・信濃の三カ国の御家人が一族郎党を引き連れて盛綱のもとに参集。 戦いは5月に入ってから・・・  盛綱の子息盛季は先陣を切ろうとしたが、信濃国の住人海野幸氏が盛季の右側から前へ出ようとした。 しかし、盛季の郎党が幸氏の馬の轡をつかんだことから、その間に盛季は先頭へ出て一番矢を放ち、幸氏が二番矢を放ったのだという。 二刻(4時間)に及ぶ合戦で、盛季も負傷し、郎党も傷を負わぬものはいなかったのだという。 一方、資盛の叔母の 板額御前 は、次々に敵を射殺し、その腕は百発百中で、佐々木軍を圧倒したのだとか。 しかし、信濃国の住人藤沢清親が板額御前の左右のももを射貫いて捕らえると、資盛軍は力を落とし敗北したのだという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼家追討の宣旨を要求した城長茂

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城長茂(じょうながもち)は、越後国の武将。 源平の戦い では平家に属し、平家滅亡後は 梶原景時 に預けられていたが、1189年(文治5年)の奥州征伐で景時の推薦により従軍を許されている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1200年(正治2年)1月20日、庇護者の 梶原景時 が滅ぼされると、1年後の1201年(正治3年)1月23日、軍兵を率いて上洛。 小山朝政 の三条東洞院の宿舎を取り囲んだ。 朝政は、大番役で京都に滞在していたが、その日は土御門天皇が後鳥羽上皇の仙洞御所への行幸に供奉していたため留守にしていたときの出来事だった。 宿舎にわずかに残っていた兵が防戦したことで、長茂は退散したのだが・・・ 後鳥羽上皇の仙洞御所に参上し、四方の門を閉ざして「 頼家 追討の宣旨」を要求した。 しかし、許可されなかったため逃亡。 その後、行方知れずになっていたが、2月22日、郎党4人とともに 吉野山 に潜伏しているところを誅殺された。 2月29日には、一族の城資家・城資正・藤原隆衡(藤原秀衡の四男)が誅殺されている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ