清水寺と清閑寺の領地争い
『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)7月25日、 清水寺 の僧が一堂を建立しました。 しかし、そこは 清閑寺 の領地。 清閑寺 の僧が訴えを起こすと、清閑寺を末寺としている 比叡山 の衆徒も騒ぎ出します。 すると、 清水寺 を末寺としている 興福寺 の衆徒も騒ぎ出し、8月3日、清水寺に砦を築きます。 比叡山 の衆徒は長楽寺に結集しました。 朝廷は、検非違使の平有範・大内惟信・後藤基清を 清水寺 に派遣。 清水寺の砦を壊し、武器を捨て法衣を着て仏前にいるよう説得すると、寺僧たちはこれを承知しました。 続いて、院の職員を長楽寺に派遣。 同様に説得しますが、所司の法師が応対しただけで、従う様子はありません。 衆徒に面会して天皇のお言葉を伝えようとしますが、悪僧が出てきて、 「命など惜しくはない、天皇の言葉など聞くに及ばず」 などの暴言を吐く始末。 院の職員は早々に退去しますが、門や扉には石礫が飛んできました。 報告を受けた後鳥羽上皇は、北面の武士と在京の御家人・近臣の家人に命じて長楽寺を囲み、一人残らず逮捕するよう宣旨を下しました。 攻められた衆徒は武装を解いたのだといいます。 8月6日、 比叡山 の衆徒は山を下り、 根本中堂 ・ 常行三昧堂 の扉が封鎖され、常明灯が消され、 日吉大社 の御簾や神鏡を切って落として閉門させ、神官たちは追放されたのだとか。 清水寺 清閑寺 その後、土地は清水寺の所領とされました。 その代わりに、清水寺の前執行・法橋快玄が還俗させられて佐渡国に配流されたのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ