投稿

6月 23, 2013の投稿を表示しています

鎌倉:妙本寺のアジサイとノウゼンカズラ2013/06/28

イメージ
妙本寺 の アジサイ が見頃です。 二天門 背後では ノウゼンカズラ も咲き始めています。 (梅の木に巻き付いた方のノウゼンカズラ) 棚の方はまだ咲いていません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉手帳

鶴岡八幡宮の七夕飾り2013

イメージ
鶴岡八幡宮 の七夕飾り。 鶴岡八幡宮 では、毎年7月7日に 「七夕祭」 が執り行われています。 二の鳥居 太鼓橋 昨年から三の鳥居の飾りがなくなり太鼓橋に飾られています。 舞殿 舞殿 上宮 楼門を入ると笹の葉の飾りがきれいです。 梶の葉の色紙と短冊絵馬 願いの書かれた色紙と短冊が五色の紐に結ばれて奉納されます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鶴岡八幡宮 鎌倉手帳

伏見稲荷大社(稲荷信仰)と東寺(真言密教)

イメージ
826年(天長3年)、 弘法大師 (空海)は 東寺 の 五重塔 造営に着手します。 その用材は伏見の稲荷山から伐り出したのだといいます。 東寺五重塔 ところが、淳和天皇が病気となってしまいます。 その原因は聖域である稲荷山から木を伐り出したことにありました。 東寺 は王城鎮護のために創建された官寺。 そこで朝廷は、 伏見稲荷大社 に従五位の下を授けて謝罪します。 また、 弘法大師 は山上にあった稲荷神を現在地に勧請し、それ以来、 伏見稲荷大社 は 東寺 の鎮守社になりました。 このようにして、稲荷信仰は真言密教と深く結び付いて広まっていったのだそうです。 伏見稲荷大社 その後、 伏見稲荷大社 は、942年(天慶5年)に正一位を授けられ、963年(応和3年)には都の東南の鎮守社とされています。 15世紀後半には、 東寺 末の愛染寺が境内に建立されました。 愛染寺は明治の神仏分離によって廃されていますが、5月3日の「稲荷祭」(還幸祭)では、西九条の御旅所を出発した五基の神輿を中心とする列は、途中で 東寺 の僧による「東寺神供」を受けてから本社へ向かうそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

もうすぐ終わり・・・鎌倉のアジサイ2013

イメージ
鎌倉のアジサイも終盤です。 7月に入ると剪定が行われますので、アジサイ散策がまだの方はお早めに。 鎌倉のアジサイ ~人気のある散策コース~ 江ノ電沿線のアジサイ 北鎌倉のアジサイ その他・・・ 妙本寺 ・ 浄妙寺 ・ 瑞泉寺 など。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉手帳

源頼朝と文覚が密談したという高源寺・・・伊豆函南

イメージ
高源寺 (静岡県田方郡函南町) 高源寺 は、 伊豆国 の 蛭ヶ小島 に流されていた 源頼朝 が 文覚 と源氏再興の密談をしたと伝えられている寺。 JR函南駅から冷川沿いの美しい景色を眺めながら30分ほど歩くと、古刹らしい趣の 高源寺 が姿を現します。 もとは長久寺という名だったそうですが、火災で焼失後、 源頼朝 が再興し高源寺としたそうです。 参道 参道 比企禅尼宝篋印塔 頼朝 の乳母を務めた比企尼の屋敷もこの辺りにあったといいます。 鐘楼門 鐘楼門 本堂 https://www.yoritomo-japan.com/izukannami-kogenji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~高源寺への途中にある滝~ 不動の滝 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の側近足利義兼(鎌倉:浄妙寺開基)

イメージ
足利義兼 は、 源義家 の曾孫。 父は足利氏の初代義康。 母は 熱田大宮 司藤原範忠の娘( 源頼朝 の母 由良御前 の姪)。 熱田神宮 ※ 藤原範忠は 熱田大宮 司藤原季範の長男で、その娘が足利義康の妻となり義兼を生んでいます。 源頼朝の母 由良御前 は、季範の娘。 従って、熱田大宮司藤原季範の血筋は、鎌倉幕府の源氏三代と摂家将軍二代、そして、のちの室町幕府将軍家へと伝わっていくことになります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 足利義兼 は、 源頼朝の挙兵 から早い段階で 源頼朝 に従ったと考えられ、1180年(治承4年)12月12日、 頼朝 が大倉の新亭( 大倉幕府 )に移るときには、集まった御家人の中に名を連ねています。 翌年には 北条時政 の娘時子を妻としました(時子は 北条政子 の同母妹と考えられています。)。 浄妙寺 浄妙寺 は、 足利義兼 が父義康の菩提を弔うために創建した真言宗の極楽寺を前身としているという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 足利義兼 は、鎌倉幕府では 源頼朝 の一門として重き地位に置かれ、 頼朝 の側近として仕えていました。 1184年(元暦元年)、平氏追討のため 源範頼 に従って西海に赴く。 1185年(文治元年)、上総介に補任。 1188年(文治4年)正月、垸飯(おうばん)を献じる。 ※垸飯とは、有力御家人が御所で 頼朝 を饗応する行事。 1189年(文治5年)、奥州征伐に出陣。 1190年(建久元年)、藤原泰衡遺臣の追討使として奥州へ発向。 1192年(建久3年)、 鶴岡八幡宮 の放生会で 頼朝 に代わり奉幣の御使を勤める。 東大寺大仏殿 1195年(建久6年)3月、 源頼朝 は 東大寺 の 大仏殿 落慶供養に参列するため上洛します。 足利義兼 も 頼朝 の随兵として上洛しましたが、義兼は 東大寺 で出家し、以後、下野国足利に隠棲して、邸内の持仏堂で念仏三昧の生活を送っていたといいます。 1199年(建久10年)3月8日死去。 義兼 は、持仏堂の僧を教学に励ませたことから「足利学校の創設者」ともいわれています。

北条政子の兄宗時の墓

イメージ
北条政子 の兄宗時は、1180年(治承4年)の 源頼朝の挙兵 に加わり、 石橋山の合戦 で討死しました。 北条宗時の墓 (静岡県田方郡函南町) 『吾妻鏡』によれば、 石橋山 で大敗した 頼朝 が土肥山中に逃げ延びた後、宗時は土肥から桑原を経て平井郷へ向かおうとしていました。 しかし、 伊東祐親 の軍に包囲され小平井久重に討ち取られたと伝えられています。 墓所には大小二つの塔がありますが、大きい方が北条宗時、小さい方が同じく 石橋山の合戦 で討死した工藤茂光の墓ということです。 源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・(石橋山)