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京都:六道の辻~六道珍皇寺・西福寺・子育て幽霊飴・六波羅蜜寺~

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清水寺 の参道清水坂を下り、東大路通を越えた松原通沿いには、 六道珍皇寺 と 西福寺 があります。 その昔、このあたりは「六道の辻」と呼ばれていたそうです。 平安京の埋葬地・鳥辺野の入口であったためそう呼ばれたのだといいます。 六道珍皇寺 六道珍皇寺 は、いつ誰が創建したのかは定かでありませんが、 小野篁がこの世とあの世を行き来したという井戸が残され、あの世とこの世の境にある寺として信仰されてきました。 閻魔堂には小野篁が彫ったという閻魔大王像と小野篁像が安置されています。 本堂 閻魔堂 冥途通いの井戸 六道珍皇寺の鐘楼 (迎え鐘) 8月7日~10日までは「六道詣」。 盂蘭盆前に 六道珍皇寺 で「迎え鐘」を撞いて、死者の精霊をお迎えする行事です。 六道珍皇寺 は鐘は、鐘楼の外に出された綱を引っ張って打ち鳴らします。 その音は十万億土へ響き渡り、その音を聞いて精霊たちが帰ってくるのだといいます。 西福寺 西福寺 は「六道の辻地蔵尊」と呼ばれ、「六道詣」のときには、「六道絵」が公開されるそうです。 幽霊子育飴の店 西福寺 の辻向かいには 「幽霊子育飴」 を売る店があります。 ある若い女が死んだあと墓場の中で子を生み、その子を育てるために夜な夜な飴屋に現れて水飴を買っていったという伝説が残されています。 ※鎌倉の松源寺(廃寺)にも同じような伝説が残されています(参考: 窟堂 )。 六道之辻と刻まれた石柱 (西福寺前) 六波羅蜜寺 平安時代、疫病が流行すると「六道の辻」には、多くの死体が捨てられたそうです。 その供養のために空也上人が建てたのが西光寺だったといいます。 現在の 六波羅蜜寺 です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

今日から「ぼんぼり祭」~鶴岡八幡宮~

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今日から 「ぼんぼり祭」 が始まりました(8月9日まで)。 鶴岡ミュージアムでは、特別展「雪洞100選」が開催されています。 ぼんぼりうちわ 今年の「ぼんぼりうちわ」は、来年の大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 の脚本を手掛けるは三谷幸喜先生の揮毫。 運慶 は武家の都鎌倉の仏像に大きな影響を与えた奈良仏師。 鎌倉には運慶の真作は残されていませんが、 北条時政 の 願成就院 (伊豆の国市)・ 和田義盛 の 浄楽寺 (横須賀市)には運慶仏が残されています。 三谷先生の矜羯羅童子(こんがらどうじ)は、金剛峯寺のもののようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月10日の鎌倉は功徳の日! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝は成朝/北条時政・和田義盛は運慶

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運慶 (六波羅蜜寺) 運慶 は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した奈良仏師。 奈良仏師は 興福寺 を拠点に活動していました。 平等院 の阿弥陀如来坐像(国宝)を造立した定朝の流れをくむ仏師集団です。 興福寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~成朝に造仏を依頼した源頼朝~ 1185年(文治元年)、 源頼朝 は奈良仏師成朝を招いて、 勝長寿院 の阿弥陀如来像を造立させてまいす。 『吾妻鏡』によると丈六の皆金色の阿弥陀仏だったのだといいます。 成朝は、奈良仏師の本家慶朝の子。 頼朝は何故、奈良仏師の中から成朝を選んだのか・・・ これには諸説あるようですが、 頼朝の場合、 範頼 ・ 義経 といった兄弟の関係からもわかるとおり、系統や血筋を重視するタイプ。 したがって「定朝の嫡流」である成朝を選んだのではないかという考えが有力のようです。 当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは 運慶 の父康慶のみだったそうです。 それでも頼朝は無位の成朝を選んでいます。 ※僧綱位とは、法橋・法眼・法印といった僧位。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北条時政と和田義盛は運慶に造仏依頼~ 1186年(文治2年)、 北条時政 は 願成就院 の諸仏制作を 運慶 に依頼。 阿弥陀如来像・不動三尊像・毘沙門天像・こんがら童子像・せいたか童子像は、 運慶 の真作で、2013年(平成25年)、国宝に指定されています。 願成就院 1189年(文治5年)、 和田義盛 も 浄楽寺 の諸仏制作を 運慶 に依頼。 阿弥陀如来及両脇侍像・不動明王像・毘沙門天像は運慶の真作で国の重要文化財に指定されています。 浄楽寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~何故、運慶だったのか?~ 北条時政 と 和田義盛 は、何故、成朝ではなく運慶を選んだのか・・・ 頼朝と同じ成朝にするわけにもいかず、さらに、傍系であっても僧綱位にあった康慶を選ぶわけにもいかないため、運慶を選んだのだという考えが有力のようです。 頼朝に配慮してということだったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 金剛力士像 (東大寺) 運慶 は、 平重衡 によって焼かれた 興福寺 や 東大寺 の復興に貢献しました。 東大寺南大門

鶴岡八幡宮~「鎌倉殿の13人」を空想しながら。~

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☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 は、 源頼朝 が武家の都市づくりの中心に据えた社。 📎鶴岡八幡宮の遷宮 📎鶴岡八幡宮の造営 📎鶴岡八幡宮焼失 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 本宮楼門 1219年(建保7年)1月27日、 源実朝 の右大臣拝賀式に従っていた 北条義時 は、白い犬が 楼門 の傍らに見えたことで気分が悪くなり、剣持ち役を源仲章に譲って小町の屋敷に帰ったのだといいます。 その後、 実朝 と仲章は 公暁 に殺害されました。 📎源実朝の暗殺 📎源実朝が暗殺された日 📎北条義時と戌神将の伝説 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大イチョウ 源実朝 を暗殺した 公暁 が隠れていたという伝説の御神木。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 舞殿 舞殿 のある場所は、頼朝の命で、 源義経 が馬を引き、 静御前 が舞った場所。 📎源義経と大工の馬事件 📎静の舞 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ビャクシン 若宮 社殿横に聳える ビャクシン は、 源実朝 が宋から苗を取り寄せて植えたものと伝えられています。 📎宋に憧れた将軍~源実朝の渡宋計画~ 📎源実朝が請来した仏舎利の伝説 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 旗上弁財天社 源氏池 の島にある 旗上弁財天社 は、 北条政子 の建立とも伝えられ、社殿の背後には政子石が置かれています。 政子石 政子石 は、夫婦円満と子宝の祈願石として信仰されてきました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 流鏑馬馬場 1187年(文治3年)、 源頼朝 は鶴岡八幡宮で放生会を催します。 これが、現在の 例大祭 の起源といわれ、放生会では 流鏑馬 が奉納されました。 📎武田流流鏑馬 📎小笠原流流鏑馬 📎鶴岡八幡宮例大祭 静桜 流鏑馬馬場 には、 静御前 の聖地の一つとされる福島県郡山市から 静桜 が植樹されています。 実朝桜 静桜の隣には、 源実朝 の首が葬られたという秦野市から 実朝桜 が移植されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 白旗神社 白旗神社 は、 源頼朝 と 源実朝 を祀る社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源実朝歌碑 「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも