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曾我兄弟の仇討ち・・・

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1193年(建久4年)、 源頼朝 は富士裾野で大規模な巻狩を催します。頼朝を中心とする東国武士の力を公家に認めさせるための大軍事演習だったと考えられています。 さて、その巻狩で起きた事件といえば 「曾我兄弟の仇討ち」 です。曾我十郎祐成と曾我五郎時致が親(父:河津祐通(祐泰))の仇として工藤祐経を討った事件です。 1193年(建久4年)5月28日のことでした。 仇討ち後、兄十郎祐成は 仁田忠常 に討たれ、弟五郎時致は 御所五郎丸 に捕らえられ処刑されたと伝えられています。 曾我の里にある曾我兄弟の墓 曾我兄弟の菩提寺 「城前寺」 (小田原市曽我谷津)にある五輪塔です。 曾我兄弟は曾我氏の血を引く者ではありませんが、母満江御前が曾我祐信と再婚したことにより曾我の里に移り住んだのだといいます。 曾我兄弟の五輪塔の右には、曾我祐信と母満江御前の五輪塔も建てられています。 城前寺では、仇討ちが決行された5月28日に「曾我の傘焼まつり」が行われます。 仇討ちの際に傘を松明の代わりにしたという故事から催されているもので、 曾我兄弟の霊を慰める祭です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 曾我兄弟の祖父伊東祐親と、兄弟に討たれた工藤祐経との間には所領問題が発生していました。 伊東祐親に所領を横領された工藤祐経は、郎等に狩りに出た祐親を襲わせますが、殺されてしまったのは曾我兄弟の父河津祐通(祐泰)でした。 (どちらが悪いといえば、「先に工藤祐経の所領を横領した伊東祐親がいけないのでは」という感じもありますが・・・。) 幼かった曾我兄弟は母満江御前の再婚によって 曾我の里 に移り住みます。 その後、元服した十郎祐成は曾我の家督を継ぎ、弟五郎時致は 箱根権現 に預けられたといいます。 1180年(治承4年)、伊豆国の 蛭ヶ小島 に流されていた 源頼朝 が挙兵します。 曾我兄弟の養父曾我祐信は、 大庭景親 に従って頼朝に敵対しますが、頼朝が鎌倉に入ると投降し許されています。 曾我兄弟の祖父伊東祐親は、 石橋山の合戦 で 大庭景親 と協力して頼朝を破りますが、のちに捕らえられ自害したと伝えられています(一説には処刑されたといいます(参考: 鐙摺山 )。) 伊東祐親といえば・・・ 頼朝と八重姫との恋を引き裂いた者として

神仏分離と鶴岡八幡宮

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1868年(明治元年)、明治政府は神仏分離令を出します。それに伴って全国で廃仏毀釈の運動が起こりました。 鶴岡八幡宮 でも1870年(明治3年)に薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、仁王門が破壊されます。 鶴岡八幡宮境内図 (1732年(享保17年) ~主な仏像の行方~ 仁王像 壽福寺 に移され現在も 壽福寺 の本堂に安置されています。 弘法大師像 等覚院 の本尊だったといいます。松源寺に移された後、 壽福寺 に移されました。現在は 青蓮寺 に移され本尊として安置されています( 鎖大師 )。 薬師三尊像 薬師堂に安置されていました。松源寺、 壽福寺 を経て現在はあきる野市の 新開院 に安置されています。十二神将像も同じです。 銅造薬師如来像 もと神宮寺の本尊だったといわれる仏像です。 壽福寺 に移されますが、現在は 鎌倉国宝館 に寄託されています(参考: 壽福寺の薬師如来像 ) 地蔵菩薩半跏像 松源寺に安置されていました。 長谷寺 に移された後転々とし、現在は横須賀市の 東漸寺 に安置されています。 如意輪観音像 法華堂(現 白旗神社 (西御門))に安置されていました。現在は西御門の 来迎寺 (西御門)に安置されています。宅間浄宏作と伝わる地蔵菩薩像も 来迎寺 に移されています。 伝源頼朝坐像 旧 白旗神社 の御神体だったといわれています。東京国立博物館に所蔵されている像がそれあろうといわれています。 地蔵菩薩立像 扇ヶ谷にあった智岸寺の像で、智岸寺廃絶後、 正覚院 に安置されていました。現在は 瑞泉寺 の地蔵堂に安置されています( どこも苦地蔵 )。 ※松源寺は 窟堂 の東側にあったといわれ、鶴岡八幡宮寺の僧の荼毘所だったといわれています。神仏分離令が発出された時は存続していたようですが、いつ頃廃絶したのかはわかっていません。 壽福寺の薬師如来 鶴岡文庫の模型 白旗神社の手水舎 白旗神社 の手水舎の水盤には蓮弁が彫刻されています。 鶴岡八幡宮 が神仏習合の宗教施設だった頃の名残です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 神仏分離令が出されると、 鶴岡八幡宮 には、「僧尼不浄の輩入るべからず」と掲示されたといいます。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/

鎌倉:長勝寺の日蓮の銅像

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長勝寺 の帝釈堂前の日蓮像は、以前は裏山の霊園に置かれていました。 日蓮像の右と通って丘を越えると材木座へ降りていけたそうですが、今でもその道は残されています。 (参考: 鎌倉散歩道~長勝寺から弁ヶ谷へ ) この日蓮像は、高村光雲の作で、もともとは東京大田区の 洗足池 の畔に置かれていました。 大正11年、 日蓮 は大正天皇より「立正大師」の号を賜ります。 翌年、それを記念して 洗足池 に建てられたのがこの像でした。 洗足池には、 日蓮 が足を洗って休息した所という言い伝えが残されているそうです。 洗足池 高村光雲の代表作には、上野恩賜公園の「西郷隆盛像」や皇居の「楠公像」があります。 長勝寺 の日蓮像は、ある古書によると台座と合わせて8メートルもの高さがあったそうですが・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 日蓮像の背後には四天王 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 長勝寺 https://www.yoritomo-japan.com/page126tyoshoji.htm

作家葛西善蔵と鎌倉

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1919年(大正8年)、葛西善蔵は静養のため 建長寺 の塔頭 宝珠院 の庫裡を借りての生活を始めます。 食事の世話は、半僧坊の参道にあった茶店 招寿軒 のお世話になっていました。 招寿軒 は、現在営業されていませんが建物はまだ残されています。 善蔵への食事は、 招寿軒 の娘「浅見ハナ」が届けていたそうです。 「・・・講」と染められた旗が掲げられていた頃の招寿軒 1924年(大正12年)、関東大震災が起こると 宝珠院 が倒れてしまいます。 その時の様子を善蔵は、 「崖崩れの音、建物の倒れる音、人々の叫び声、とにかくこの世の騒ぎとは思われなかった」 と書いています。 震災後、善蔵は鎌倉を離れ東京に移りますが、 招寿軒 に借金を残したままでした。 ハナは、その借金を返してもらうために上京しますが、そのまま同棲したということです。 善蔵の作品『おせい』や『暗い部屋にて』などに登場する「おせい」は、善蔵に尽くしたハナがモデルとなっています。 善蔵は、持病の喘息と結核を酒で紛らわすため深酒をしたといいます。そんな善蔵は昭和3年に42歳で亡くなりました。 善蔵の戒名は「藝術院善巧酒仙居士」。 葛西善蔵の墓 建長寺 塔頭 回春院 の墓地に建てられた墓です。 昭和56年、菩提寺の徳増寺(弘前市)の墓所から遺骨が分骨されました。 平成4年に亡くなったハナもこの墓に眠っているそうです。 宝珠院 招寿軒~葛西善蔵とハナ~ https://www.yoritomo-japan.com/kentyoji-shojyuken.htm

茶道と禅道(茶禅一致)~建長寺の茶筅供養~

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禅修行では、「眠りたい」とう欲で「他の欲を断ち切る」ということが言われているようです。 睡眠時間も短く修業に励んでいるということなのでしょう。 そのため、修行中に居眠りをしないように茶が用いられてきたといいます。 我が国 臨済宗 の開祖栄西は、中国宋に渡り禅の修行を積みました。そのときに茶の種を持ち帰り、それを蒔いたといいます。 のちに「茶は養生の仙薬なり・・・」とはじまる 『喫茶養生記』 を著し、茶の効用を伝えました。 『喫茶養生記』 は三代将軍 源実朝 に献上されています。 これが我が国に茶の習慣が広まるきっかけとなったといいます。 そして、我が国 曹洞宗 開祖の 道元 は、『永平清規』の中で茶礼(飲茶の作法)を定めています。 「茶禅一致」・・・ 茶道と禅道は一致するという意味から生まれた言葉です。 建長寺 では、5月28日に 「茶筅供養」 が行われています。 茶筅は、湯の注がれた茶を撹拌する道具です。 茶筅供養 には、使い古された茶筅が持ち寄られ、茶道の精進と感謝の祈りをこめて、その茶筅が炊きあげられます。 茶碗塚と茶筅塚 唐門の左に建てられています。 茶筅供養 建長寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉には、抹茶をいただくことのできるお寺がいくつかあります。 報国寺 の 竹の庭 、 浄妙寺 の喜泉庵、 円覚寺 塔頭 佛日庵 など・・・