別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2026年5月1日金曜日

鶴岡八幡宮~源頼朝が願いを込めた「武家政権の守護の社」~




鶴岡八幡宮は、河内源氏の棟梁源頼義が石清水八幡宮を由比郷に勧請したことに始まる社。

1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、由比郷にあった鶴岡八幡宮を小林郷に遷座。

1182年(養和2年)には、平安京の朱雀大路を模した若宮大路が造営され、頼朝の武家の都は鶴岡八幡宮を中心に整えられていきました。


朱雀大路のイメージ

平安京の朱雀大路は、羅城門から大内裏の正門・朱雀門まで真っすぐに通じていました。


若宮大路のイメージ

若宮大路由比ヶ浜一の鳥居から鶴岡八幡宮まで一直線に通じています。

頼朝は鶴岡八幡宮を内裏に見立てたのだといいます。


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かつての鶴岡八幡宮は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の宗教施設でした。

最高責任者は別当と呼ばれ、源頼朝は初代別当に源氏にゆかりの深い園城寺の円暁を任命しています。

明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)によって仏教施設はすべて撤去されましたが、当時は壮麗な仏教伽藍が広がっていました。


神仏分離と鶴岡八幡宮


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「武門の神」として信仰を集めた鶴岡八幡宮では・・・

1186年(文治2年)、源義経の妾静御前が舞いました。

現在の舞殿は静御前が舞った若宮回廊跡に建てられています。

1187年(文治3年)には放生会が行われ、流鏑馬が奉納されています。

9月の例大祭は、この年の放生会を起源としています。

1191年(建久2年)、大火で鶴岡八幡宮は灰燼に帰してしまいますが、頼朝はすぐに再建し、改めて石清水八幡宮の神霊を迎える儀式を行っています。

それを再現したのが12月の御鎮座記念祭(御神楽)。


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鶴岡八幡宮


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2026年4月25日土曜日

竹生島~浅井長政が信仰した神の島~




琵琶湖に浮かぶ竹生島は、古くから弁才天と観音の聖地として信仰されてきた島。

戦国時代に北近江を支配した浅井氏三代の領内にあったことから、浅井氏にとっては極めて重要な信仰の場でした。

1558年(永禄元年)の「永禄の大火」で島内の堂塔・社殿がことごとく焼失しまうと・・・

三代当主の浅井長政は島内の宝厳寺竹生島神社の復興に深く関わり、織田信長との戦いで籠城中であったにもかかわらず、復興のための材木を筏を組んで島へ運ばせていたのだといいます。

信長も、この復興作業を攻撃せず黙認していたのだと伝えられています。


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宝厳寺竹生島神社は、明治の神仏分離までは一体化した宗教施設でした。



宝厳寺には浅井長政の父久政や祖母寿松が奉納した弁財天が祀られています。



竹生島神社には浅井氏の氏神・浅井比売命が祀られています。


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1573年(天正元年)、浅井長政の小谷城が織田信長に攻められ、浅井氏は滅亡。

竹生島の復興資材は・・・



北近江の地を与えられた羽柴秀吉が蓄えられていた材木を長浜城の築城に流用しています。

長浜城は、小谷城の部材や竹生島の復旧資材などを集めたことで短期間で完成しますが・・・

資材を没収された竹生島の復興は滞ることに。

竹生島の伽藍を復興させたのは、浅井長政の長女・茶々(淀殿)が産んだ豊臣秀頼でした。

現在の唐門観音堂舟廊下竹生島神社本殿は、秀頼が秀吉ゆかりの建物を移築したもの。



竹生島


宝厳寺

竹生島神社


長浜城


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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2026年4月16日木曜日

祇園祭の「蟷螂山」と小田原の老舗「ういろう」




京都の祇園祭の山鉾巡行に登場する「蟷螂山」(とうろうやま)は、山鉾の中で唯一、巡行中に動く「からくり」が施されているもの。

「小田原のういろう」で知られる外郎家(ういろうけ)の二代当主・宗奇(そうき)が創始したのだといいます。

宗奇は、現在の京都市中京区蟷螂山町に屋敷を構えていましたが・・・

近くには南北朝時代に南朝の重鎮として活躍し、後村上天皇を逃がすため討死にた公卿・四条隆資の屋敷がありました。

宗奇は隆資の死後25年の節目に、四條家の御所車に蟷螂を乗せて巡行。

それが「蟷螂山」の始まりなのだとか。





「株式会社ういろう」は、外郎家が営む小田原で存続する最古の企業。

家伝の万能薬「透頂香」(とうちんこう)と和菓子の「ういろう」を製造・販売する老舗です。



祇園祭の蟷螂山と小田原外郎家


祇園祭

小田原城


北條五代祭り


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2026年4月10日金曜日

武田信玄の西上作戦~信長包囲網 上洛途上で死去した甲斐の虎~


(甲府駅前)


武田氏は新羅三郎義光を祖とする清和源氏の一流。

義光の子・源義清が常陸国那珂郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市)を与えられたことで「武田冠者」と呼ばれたことに始まります。

その後、義清は隣国との境界争いから子の清光とともに甲斐国へ配流となりました。

ただ、清光が「武田」を名乗った形跡がなく、子の信義が巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市)に館を構えて武田を継承したのだといわれています(甲斐源氏)。

武田信玄は甲斐武田家第19代当主。




1571年(元亀2年)頃までに信濃・上野・駿河を領国化した信玄は・・・

織田信長を包囲・打倒するため、北近江の浅井長政と越前の朝倉義景の間で「信長包囲網」を築き、1572年(元亀3年)10月3日、西上作戦を開始。

徳川家康の領地である遠江へ侵攻します。

徳川に従属していた犬居城の天野藤秀(景貫)を寝返えらせるなど、只来城をはじめとする徳川の諸城を悉く落とし、徳川の遠江支配の要ともいえる二俣城の攻略を開始。



10月14日、一言坂の戦い家康を敗走させ、10月16日には二俣城を包囲しますが・・・

二俣城は天竜川と二俣川が合流する丘陵に築かれ、二つの川が天然の堀となっていた堅固な城。

武田軍は攻めあぐみますが、二俣城の水の補給手段を絶つことで、12月19日、落城させています。



二俣城には井戸がなかったため、水は井戸櫓を設けて天竜川から汲んでいました。

信玄は、天竜川上流から筏を流して井戸櫓の脚柱を破壊して水の手を絶ったのだと伝えられています。

清瀧寺には、二俣城に設けられていた井戸櫓が復元されています。


一言坂の戦い

二俣城の戦い


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二俣城を落とされた家康は浜松城に籠城する構えを見せますが・・・

12月22日、浜松城を素通りして西上する武田軍を見た家康は、作戦を変更して出撃。

三方ヶ原で合戦となりますが、圧倒的兵力の武田軍に蹴散らされて浜松城へ逃げ帰っています。

ただ・・・

信玄は自らの侵攻に合わせて、近江の浅井長政と越前の朝倉義景が織田軍を釘付けにすることを期待していましたが、長政の援軍として北近江に参陣していた義景が撤退。

12月28日、信玄は義景に文書を送りつけ再度の出兵を求めますが、義景はその後も動こうとしませんでした。

信玄も三方ヶ原の戦いの勝利の勢いに乗じて大沢基胤の堀江城を攻めていますが、攻め落とせず撤退しています。



1570年(元亀元年)、家康は三河国の岡崎城から遠江国の曳馬城に移り、新たに浜松城を築いて本拠としていました。



三方ヶ原の戦い


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


三方ヶ原の戦い後、信玄は軍勢の動きを止めて浜名湖北岸の刑部において越年。

年が明けて1573年(元亀4年)1月、三河に侵攻し、2月10日には野田城を落としますが(野田城の戦い)、このころから持病が悪化し武田軍の進撃が停止します。

信玄は長篠城で療養していましたが、4月初旬に甲斐国へ撤退を開始。

4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で信玄が死去。

信玄の死によって信長包囲網は崩壊することに。

脅威が去った信長は、8月、義景の一乗谷城を攻めて朝倉氏を滅亡させ、続いて長政の小谷城を攻めて浅井氏を滅亡させています。



信玄が療養していた長篠城は、武田軍の撤退後、家康に攻められて開城。

1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、武田勝頼に包囲されますが、城主の奥平貞昌を家臣・鳥居強右衛門の活躍もあって武田軍の攻撃を凌ぎきったのだといいます。




信玄は躑躅ヶ崎城下の土屋昌続邸に埋葬され、3年後の1576年(天正4年)、菩提寺の恵林寺に改葬されたのだといいます。





(韮崎市)

甲斐武田氏の初代当主武田信義は、源頼朝木曽義仲らとともに平家打倒の挙兵をした武将。


(韮崎市)

武田八幡宮は、甲斐武田氏の氏神で、現在の社殿は信玄の再建。


(笛吹市)

武田館は、信義の五男信光の代で八代郡石和荘に移ります。

石和八幡宮は、武田家累代の氏神として信仰された社。


(甲府市)

戦国期になると、十八代当主の武田信虎(信玄の父)が石和館を躑躅ヶ崎に移します。

躑躅ヶ崎館の一帯は中世甲府の中心地として栄え、信玄は、躑躅ヶ崎館の後方に築かれた要害山城(または積翠寺)で誕生したのだと伝えられています。

武田神社は、躑躅ヶ崎館跡に建てられた社(祭神は信玄)。



(甲州市)

恵林寺は信玄の菩提寺。

明王殿の不動明王(武田不動明王)は信玄が自らの姿を模刻させたと伝えられ、明王殿の裏には信玄の墓が建てられています。



風林火山

諏訪神号旗


御旗楯無 御照覧あれ


武田信玄


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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