別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年7月3日木曜日

豊臣秀長の墓~大和郡山市:大納言塚~




豊臣秀長は豊臣秀吉の弟。

1585年(天正13年)、大和・紀伊・和泉100万石の大名として郡山城を居城としました。

1591年(天正19年)1月22日、郡山城で病死。

秀長の墓所は、秀長が大和大納言と呼ばれていたことから大納言塚と呼ばれています。




大納言塚


豊臣秀長

大和郡山城








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2025年7月2日水曜日

源義経に名を与えられた白狐~源九郎稲荷神社~




大和郡山城下にある源九郎稲荷神社は、豊臣秀長郡山城の守護神とした社。

源九郎とは・・・

源義経の郎党・佐藤忠信に化けて吉野山へ向かう静御前を助けたという白狐。

義経は白狐に自分の幼名「源九郎」の名を与えたのだとか。



源九郎稲荷神社


吉野山

源義経

静の舞








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豊臣秀長

大和郡山城


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2025年6月30日月曜日

源頼朝が一目置いた平重衡の供養塔~木津川:安福寺~



平重衡は平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月28日の南都焼討東大寺興福寺を焼いてしまった武将。

1183年(寿永2年)2月7日、一ノ谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られてきますが、重衡の態度に感心した源頼朝は、工藤祐経に接待を命じ、侍女の千手前を仕えさせて重衡を客として厚遇したそうです。

鎌倉の教恩寺阿弥陀如来像は、頼朝が重衡に与えたものと伝えられています。

しかし、1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、6月23日、木津川で斬首されました。

木津川市の安福寺十三重塔は重衡の供養塔と伝えられています。




安福寺の本尊・阿弥陀如来像は、重衡が最後に拝んだ仏像。





一ノ谷の戦い

南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~








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2025年6月17日火曜日

源義経の青葉の笛と静御前の小鼓の胴~琵琶湖竹生島~




かつて琵琶湖の竹生島には源義経所持と伝えられた「青葉の笛」と静御前所持と伝えられた「小鼓の胴」があったのだとか。

織田信長は「青葉の笛」を借り出し、「小鼓の胴」も見たいと言っていたらしい。


「青葉の笛」といえば、一ノ谷の戦いで義経に討たれた平敦盛の笛。

信長は「人間五十年・・・」という『敦盛』 (幸若舞・こうわかまい)を好んだといわれていますが・・・

竹生島の「青葉の笛」をどう感じながら見たのだろう???


現在、「青葉の笛」は、彦根城博物館が所蔵。

「小鼓の胴」は、MIHO MUSEUM所蔵。

一ノ谷古戦場にある須磨寺にも「青葉の笛」が伝えられているが、信長が見た青葉の笛とは別物。




竹生島の青葉の笛



竹生島


宝厳寺

竹生島神社








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2025年6月16日月曜日

源義経が祈願した恵比寿神~京都:粟田神社~




1174年(承安4年)、少年期を過ごした鞍馬寺を出て奥州平泉に下ることにした源義経は、粟田口の蹴上で恵比寿神に源氏再興の祈願したのだと伝えられています。

粟田神社の摂社・出世恵比寿神社は、蹴上にあった社なのだとか。

御神像は最澄作と伝わる日本最古の恵比寿像。








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源義経








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2025年6月1日日曜日

江の島参詣道(遊行寺から江の島・江の島弁財天道標)


東海道藤沢宿からの江の島の参詣道は、遊行寺の前から片瀬を通って江の島へと通ずる「江の島道」が本道となります。


(遊行寺)



安藤広重が描いた藤沢宿

昔は、遊行寺橋の手前に鳥居があって、ここが江の島道の始点だったようです。

鳥居の左が遊行寺橋で上の山に遊行寺が描かれています。




江の島弁財天道標
(遊行通り三丁目ロータリーの道標)

江の島弁財天の道標は、江の島に参籠して官鍼法の技術を習得した杉山検校によって寄進されました。

48基の道標が建てられたようですが、現在は12基の道標が残されています。

参考:鍼師「杉山検校」と江の島弁財天



藤沢市役所前にも2基の道標が残されています。



道標の正面には、弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」と刻まれ、



左右の面には、「二世安楽」と「一切衆生」の文字が刻まれています。




この道標は、本道から離れた鵠沼神明の法照寺(浄土宗)の境内に置かれたものです。

もとは、近くにある日本精工藤沢工場内にあったものといわれています。

江の島道は、本道の他にも、いろんなルートがあったので、その一つの街道沿いに置かれていたものと考えられています。

ただ、他の道標と違うのは「一切衆生」ではなく「二切衆生」と刻まれているところです。その意味は判っていません。


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昔の面影を残す馬喰橋から江の島への古道
(旧片瀬道)


馬喰橋

馬喰橋(うまくらいはし)は、境川の支流に架けられた小さな橋です。

源頼朝が馬の鞍を橋の替わりにして渡ろうとした」という伝説から、「馬鞍橋」と呼ばれていたのだといいます。

また、馬がこの橋を渡ろうとするといななきをあげながら死んでしまうことから、「馬殺橋」とも呼ばれていたそうです。

この橋の周辺は、江の島参詣の往来の他、海上交通の拠点としても賑わっていたました。



岩谷不動

弘法大師が穴居修行を行った場所と伝えられ、石造不動尊が安置されています。

1695年(元禄8年)、片瀬に生まれた快祐上人が石籠山救法教寺を開き再興しますが、廃寺となり、現在は、近くの泉蔵寺が管理しています。

快祐上人は、鎌倉の青蓮寺で修行し、江戸湯島の霊雲寺で解行を積んだ後、片瀬に戻って不動尊を開いたと伝えられています。

1744年(延享元年)、岩谷に入定し、即身成仏したと伝えられています。




鎌倉幕府三代執権の北条泰時が、1226年(嘉禄2年)、和田合戦承久の乱の戦死者を供養するため創建した寺と伝えられています。


泉蔵寺門前の江の島弁財天道標



諏訪神社

723年(養老7年)、信濃諏訪大社より他郷への最古の御分霊社として勧請された伝えられています。



密蔵寺

嘉元年間(1303~06年)の創建とされています。


密蔵寺の向かいの辻の江の島弁財天道標

ここを右に入ると、時宗開祖の一遍が踊り念仏を行ったという場所です。




時宗開祖の一遍は、1282年(弘安5年)、鎌倉に入ろうとしますが、時の執権北条時宗に阻止されてしまいます。

その後、一遍は、片瀬の地蔵堂で約四ヶ月に亘って布教を行ったと伝えられています。

「一遍の踊り場跡」とも、「念仏堂跡」とも呼ばれていた場所です。




本蓮寺は、595年(推古天皇3年)に開創されたといわれ、1184年(元暦元年)、源頼朝によって源立寿寺として再建したと伝わる寺です。

嘉元年間(1303~06年)に日蓮宗に改宗されたと伝わっています。



(片瀬の伝統工芸品)



片瀬市民センターの江の島弁財天道標




東国を訪れた西行がここにあった松を見て、「その枝振りの見事さに都が恋しくなり、都の方を見返って、枝を西にねじった」と伝えられています。

「見返り松」とも「ねじり松」と呼ばれていたそうです。

これも、江の島弁財天道標の一つです。

三面は他のものと同じですが、四面に「西行もどり松」と刻まれています。




常立寺は、龍ノ口処刑場で処刑された者を弔うために建てられた寺といわれ、北条時宗によって処刑された杜世忠ら元の国使もここに葬られたと伝えられています。



湘南モノレール「湘南江ノ島駅」付近の道標

これも江の島弁財天の道標で、「従是右江島遍」、「左龍口遍」と刻まれています。



洲鼻通りの江の島弁財天道標







杉山検校は、この福石につまずいたおかげで「管鍼術」を習得したと伝えられています。



白旗神社の道標

この道標は源義経を祀る白旗神社にあるものです。

これで12基になります。




江の島弁財天


江の島









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北条時政の龍神伝説

北条氏は龍神に滅ぼされたのか?


源義経とあさひ天女

洪鐘祭



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