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鎌倉検定過去問~鶴岡八幡宮の大鳥居(一の鳥居)~

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(問)写真の建造物を寄進した人物はだれか。 (問)鶴岡八幡宮大鳥居は〔   〕の下馬と海岸の間に建つ石造明神鳥居である。1180年(治承4)に建立されたといわれ、現在のものは江戸幕府4代将軍〔   〕の寄進によって1668年(寛文8)に造られた。 (問)鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)は、若宮大路の下馬と海岸の間に建つ〔   〕造明神鳥居である。現在の鳥居は〔   〕が寄進したもので、鳥居としては数少ない国の重要文化財になっている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮 の 大鳥居 (一の鳥居)は、1668年(寛文8年)に徳川家綱が寄進した石造明神鳥居(国の重要文化財)。 二の鳥居 と 三の鳥居 も家綱が寄進したものでしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で三つの鳥居全てが倒潰。 1937年(昭和12年)、 一の鳥居 だけが復元されました。 一の鳥居 家綱は何故、鳥居を寄進したのか??? 伝説によると・・・ 家綱の祖母・ 崇源院 は 鶴岡八幡宮 の 弁財天 を信仰していたのだといいます。 ある夜、崇源院は夢の中で弁財天に 「木造の鳥居を石造にするように」 と告げられたのだとか。 ただ、完成したのは孫の家綱の時代だったのだと伝えられています。 崇源院 の遺願も込められた鳥居です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~創建者は源頼朝~ 一の鳥居 は、1180年(治承4年)に 源頼朝 が 由比若宮 ( 鶴岡若宮)を現在地に遷座したときに創建されたと考えられています。 『吾妻鏡』によると、1241年(仁治2年)4月3日、大地震が発生し、大鳥居内の拝殿が流出。 鳥居の下には拝殿があったようです。

鎌倉検定過去問~源頼朝の永福寺~

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奥州藤原氏の築いた平泉の中尊寺大長寿院を模して、源頼朝が造営したという壮大な寺院の旧跡はどこか。 源頼朝が二階堂に永福寺を創建したのは何のためか。 度重なる火災などで失われたが,奥州藤原氏が築いた平泉の中尊寺の二階大堂(大長寿院) を模して源頼朝が創建したという壮大な寺の旧跡はどこか。 源頼朝は、[    ]を攻めたときに見た平泉の中尊寺金色堂や[    ]の庭園の壮麗さに感銘して、後に、鎌倉の地にもこれに似た壮麗な寺や庭園を築いたのが、[    ]である。[    ]は、鶴岡八幡宮(寺)・[    ]とともに、鎌倉幕府成立当初の三大寺院といわれた。将軍の創建であり、幕府主催の国家守護の祈祷を行うところから「幕府の[    ]」という性格を帯びていた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1187年(文治3年)10月29日に 源義経 を庇護していた 奥州平泉 の 藤原秀衡 が死去し、1189年(文治5年)閏4月30日に義経が泰衡に討たれると・・・ 7月19日、 源頼朝 は 奥州征伐 を開始。 秀衡の子泰衡は 平泉館 を焼き払い、逃亡の末、9月3日、比内郡贄柵で郎党に殺されました。 これによって 藤原清衡 以来栄えた 奥州藤原氏 は滅びました。 永福寺 は、 源頼朝 が奥州平泉の 中尊寺 、 毛越寺 、 無量光院 などを模して建てた寺院。 藤原泰衡や 源義経 をはじめとする内乱の戦死者を鎮魂するために建立したのだといわれています。 1405年(応永12年)に焼失し、その後廃絶したものと考えられています。 永福寺跡 永福寺跡 では、2017年(平成29年)に二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の基壇と苑池の復元が完了。 苑池の景観は、 宇治平等院 の 鳳凰堂 前の阿字池のようであったと想定されています。 本堂は、 中尊寺 の 大長寿院 (二階大堂)を模して建てられたようですが、両側に阿弥陀堂、薬師堂を従え、前面には苑池も造営されていることから、全体のイメージは、 無量光院 を参考にしたのかもしれません。 無量光院 は、奥州藤原氏三代目の 秀衡 が、宇治の 平等院鳳凰堂 を模して建てた寺院だったといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 奥州藤原氏と源氏の過去を乗り越え、友好の証として、2019 年(平成 31)4月に平泉

鎌倉検定過去問~源頼朝の勝長寿院~

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雪ノ下の大御堂にあった〔   〕は、〔   〕が父親の供養のために創建、奈良から仏師〔   〕を招いて、黄金の〔   〕像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。 源頼朝が雪ノ下の大御堂に勝長寿院を創建したのは何のためか。 勝長寿院の黄金の阿弥陀像を造仏するために、源頼朝に奈良から招かれたと伝えられる仏師はだれか。 源頼朝が、1185年(文治元)、父の供養のために雪ノ下の大御堂に創建したと伝えられる寺の旧跡はどこか。 現在は碑のみが残される[    ]は、源頼朝が1185年(文治元)に父義朝の供養のために、雪ノ下の[    ]に創建したといわれる。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1185年(文治元年)、 源頼朝 は父 義朝 の菩提を弔うため 勝長寿院 を創建。 後白河法皇 から送られた義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を葬ります。 本堂(阿弥陀堂)には、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、藤原為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれたのだといいます。 1219年(承久元年)には、 北条政子 が 源実朝 の冥福を祈るため五仏堂を建立し、 運慶 の五大尊像が安置されました。 勝長寿院跡 勝長寿院 の造仏のため、頼朝は京都の仏師ではなく奈良の仏師を選びました。 それは平家をはじめとする旧勢力との関係が稀薄だったから。 奈良仏師は、 平等院 の 阿弥陀如来坐像 を造立した定朝の流れをくむ集団。 奈良仏師として知られるのは 運慶 ですが、系統や血筋を重視する頼朝は、傍流の運慶ではなく嫡流の成朝を選んだのではないかと考えられています。 頼朝が成朝に造仏を依頼したことで、東国と奈良仏師の関係が開かれ、 北条時政 は 願成就院 の諸仏制作を、 和田義盛 も 浄楽寺 の諸仏制作を運慶に依頼しています。

鎌倉検定過去問~大倉幕府(鎌倉幕府)に関する問題~

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(問)源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に、幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。 (問)大倉に居を構え、武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。 (問)源頼朝は鎌倉入りし、大倉に居を構え、幕府を開いた。その後、幕府は3代執権北条泰時により、〔 ① 〕に移され、さらに1236年(嘉禎2年)には〔 ② 〕に移された。 (問)平氏打倒の旗挙げの直後、[ ① ]の合戦に敗れた源頼朝は、海上で三浦氏と合流して、房総半島に逃れた。再度、関東の豪族を集めて勢力を立て直し、鎌倉に入り、[ ② ]に屋敷を構えた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)8月17日、伊豆の流人だった 源頼朝 は 源氏再興の挙兵 をします。 伊豆国の目代・ 山木兼隆 を討った頼朝は相模国へと進軍しますが、 石橋山の戦い に敗れ、 真鶴 から 安房国 へと渡りました。 安房国で再挙した頼朝は、10月7日、大軍を率いて鎌倉に入ります。 2日後の9日には 御所 の造営にとりかかりました。 選ばれたのは大倉の地。 大庭景義 を奉行として進められた御所の造営は、12月12日に完了。 新造の 御所 に入った頼朝は、御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されます。 鎌倉殿の誕生です。 この少し前の11月17日、 和田義盛 が侍所の別当に任じられています。 大倉御所 は、頼朝亡き後は 頼家 ・ 実朝 そして 北条政子 が主となりますが・・・ 1225年(嘉禄元年)に 政子 が死去すると、 北条泰時 は御所を 宇津宮辻子 に移し、さらに、11年後には 若宮大路 に移しました。 大倉幕府跡 (大倉御所跡) 頼朝の御所は、のちに大倉幕府(鎌倉幕府)と呼ばれます。 鎌倉幕府とは鎌倉の武家政権のことで、その成立時期については様々な意見があるようですが、頼朝が幕府という語を使ったことはないようです。 武家政権=幕府とされたのは江戸時代後半のこと。 徳川家康 に「江戸幕府」と言っても「何の事?」と言われてしまうのかもしれません。 参考までに・・・ 鎌倉検定では武士として初めて幕府を開いた人物を 源頼朝 としていますが、武家政権を樹立させたのは 平清盛 。 近年では清盛の 六波羅 や 福原 も幕府であるという提唱も。

藤原詮子が葬られた宇治陵

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1001年(長保3年)閏12月22日、 藤原行成 の屋敷で崩御した 藤原詮子 は、 藤原定子 が葬られた 鳥戸野陵 で荼毘に付され、 宇治陵 に葬られました。 宇治陵 宇治陵 は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。 藤原氏塋域の碑 塋域碑には、冬嗣・基経・時平・ 兼家 ・ 道隆 ・ 道長 ・ 頼通 ・師実の名が刻まれています。 その他・・・ 冷泉天皇 の女御・藤原超子 円融天皇 の中宮・藤原媓子 円融天皇の中宮・ 藤原遵子 花山天皇 の生母・藤原懐子 一条天皇 の生母・ 藤原詮子 一条天皇の中宮・ 藤原彰子 三条天皇 の皇后・ 藤原娍子 三条天皇の中宮・ 藤原妍子 後一条天皇 の中宮・ 藤原威子 後朱雀天皇 の女御・ 藤原嬉子 などが葬られました。 ただ、37ヶ所の陵墓のうち、誰がどこに被葬されているかは特定されていません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

真正極楽寺・真如堂~藤原詮子の離宮跡~

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真如堂 は、984年(永観2年)、 藤原詮子 の離宮に 比叡山 の 常行堂 にあった阿弥陀如来を安置したことに始まります。 阿弥陀如来は慈覚大師円仁の作で 「うなづきの弥陀」 と呼ばれています。 阿弥陀如来の脇侍の不動明王は、 安倍晴明 の念持仏とされる像。 晴明 が急死したときに蘇生させたという伝説の像。 換骨堂 真如堂の旧地にある 換骨堂 (元真如堂)には、 藤原詮子 の供養塔が建てられています。 東三条院の供養塔 詮子 は、出家後、院号宣下を受け「東三条院」を称しました。 京日吉神社 京日吉神社 は真如堂の守護神として 日吉大社 を勧請したことにはじまる社。 真如堂 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆