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源頼朝の命を助けた池禅尼と平宗清、そして池禅尼の子頼盛

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池禅尼は、平忠盛の正室、 平清盛 の継母。 名は宗子。 忠盛との間には、家盛・頼盛がいましたが、家盛は20代で亡くなりました。 忠盛の死後、出家して 六波羅 の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1159年(平治元年)12月、 平治の乱 が起こり、 平清盛 が 源義朝 を破ります。 義朝は、嫡男の 頼朝 らとともに都を落ちて、東国で再起を図ろうとしますが、翌1160年(平治2年)1月3日、 尾張国 で 長田忠致 に殺されてしまいます。 義朝一行と途中ではぐれてしまった 頼朝 は、2月9日、平頼盛(池禅尼の子)の家人・平宗清に捕えられ、清盛のいる 六波羅 へ連行されました。 源氏の嫡流を清盛がどうするか? 死刑が当然なのかもしれませんが・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』の元暦元年6月1日条によると・・・ 頼朝 を捕らえた平宗清は、頼朝の命乞いをしたそうです。 『平治物語』によると・・・ 宗清は池禅尼を通じて 頼朝 の助命を願ったようです。 頼朝が亡くなった子の家盛に似ていると聞かされた池禅尼は、重盛(清盛の嫡男)に、頼朝に会せてくれるよう頼みます。 重盛が 清盛 に頼んでみますが、当然のことながら許しは出ません。 嘆いた池禅尼は・・・ 断食を始めて頼朝の助命を嘆願したのだとか。 さすがの 清盛 も処刑を延期し、ついには流罪に処することになったのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ こうして頼朝は、1160年(永暦元年)3月11日、 伊豆国 へ流罪となりました。 頼朝を助けた池禅尼は、1164年(長寛2年)頃に亡くなったのだと伝えられています。 頼朝が流されたという蛭ヶ小島 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ それから約20年後の1180年(治承4年)、頼朝は 源氏再興の挙兵 。 1183年(寿永2年)には、平家一門が都落ちし、 後白河法皇 による平家追討の院宣が出されました。 それに伴い、平家一門の官職は剥奪され、所領も没収されました。 『吾妻鏡』によると、 1184年(寿永3年)4月6日、頼朝は、池禅尼の子頼盛とその妻の所領について、池禅尼の恩に報いるため、朝廷の許しを得て、これまでどおり頼盛夫妻の領地としています。 ※この頃、頼盛

伏見広綱の屋敷を破壊~頼朝と政子の夫婦喧嘩~

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源頼朝 1182年(養和2年)3月、 源頼朝 の妻 北条政子 が懐妊します。 (参考: 源頼家の誕生 ) すると・・・ 頼朝 は、伊豆時代からの愛人亀の前を鎌倉に呼び寄せ、小坪の小中太光家の屋敷に住まわせています。 『吾妻鏡』によると6月1日のことのようです。 小坪は、 由比ヶ浜 に「みそぎ」に行くといって出かけるのに都合がよかったのだそうで・・・(参考: 小坪路 )。 亀の前は、器量がよいばかりでなく、心の柔和な女性だったので、前年の春頃から 頼朝 の寵愛が激しさを増したのだとか。 その後、 頼朝 は、小坪では遠いと考えたのか、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移しています。 密かに通っていたのでしょうが・・・ 小坪 小中太光家とは・・・ 石橋山の戦い にも参陣した中原光家のことです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そんな幸せな時を送っている中の10月17日、 政子 と誕生した 頼家 が産所の比企ヶ谷から御所に戻ってきました。 すると、 牧の方 ( 北条時政 の後妻・ 政子 の継母)が、わざわざ 頼朝 の浮気の次第を 政子 に話してしまいます。 激怒した 政子 は、 牧の方 の父牧宗親に広綱の屋敷を破壊するよう命じます。 そして、11月10日、広綱の屋敷は打ち壊されました。 広綱は、亀の前を伴って 鐙摺 の大多和義久の家に逃げ込んだそうです。 さて・・・ 頼朝 はどうしたか・・・ 政子 の仕打ちに怒った 頼朝 は、12日に宗親を引き連れて義久の家を訪れ、広綱に事情を尋ねた上で宗親を詰問します。 宗親は弁明できず陳謝しますが、 頼朝 は許すことはできず、宗親の髻(もとどり)を切ってしまいました。 武士にとって髻を切られるということは最大の恥辱です。 宗親は泣く泣く逃げ帰ったそうです。 そして、 頼朝 は亀の前の所に泊まっています。 鐙摺山 (葉山町) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ さてさて、この事件は、これでは終わりません。 頼朝 は、14日の晩に鎌倉へ帰ります。 しかし、この日、 頼朝 の宗親への仕打ちに怒った 北条時政 が伊豆に引きあげてしまいます。 頼朝 は、この行動を快く思わなかったようですが、どうすることもできないでいたようです。

京都にある4つの五重塔~東寺・醍醐寺・法観寺・仁和寺~

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東寺の五重塔 東寺の五重塔 は、弘法大師空海が創建に着手し、880年頃に完成したものと考えられていますが、創建塔は落雷のため焼失。 現在の塔は、1644年(寛永21年)、徳川三代将軍家光が寄進再建(国宝)。 高さ54.8メートル。 日本一の高さを誇る木造塔。 醍醐寺の五重塔 醍醐寺の五重塔 は、951年(天暦5年)の建立。 高さは38メートル。そのうち相輪が3分の1を占め13メートル。 京都府で最古の木造建築物(国宝)。  法観寺の五重塔 (八坂の塔) 京都東山のシンボル 八坂の塔 は、法観寺の五重塔。 聖徳太子の創建と伝えられ、1179年(治承3年)に焼失した塔を源頼朝が再建しています。 現在の塔は、1440年(永享12年)、室町幕府六代将軍足利義教の再建(重要文化財)。 高さ49メートル。 仁和寺の五重塔 仁和寺の五重塔 は、1644年(寛永21年)、徳川三代将軍家光の寄進によって建立されました(重要文化財)。 塔身32.7m、総高36.18m。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 日本最古七福神 鎌倉との繋がりを求めて。

2020夏:海水浴場の開設は難しそう!

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2020年5月27日、神奈川県は「海水浴場等における新型コロナウイルス感染症の感染防止対策ガイドライン」を発表しました。 海の家の営業者が行うべき感染防止対策では、「施設内の密集を避けるために、施設(海の家)の利用は完全予約制とすること」などの厳しい内容が盛り込まれています。 ↓ 📎 ガイドライン 例年の鎌倉・江の島の海水浴場開設期間は7月1日から8月31日ですが、今年は開設が難しいのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 多くのイベントが中止になると思いますが・・・ 夏休み鎌倉計画! 夏休み江の島計画!

東大寺には七重塔が聳えていた!

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かつて、 東大寺大仏殿 の東西には、100メートルに達する七重塔(東塔・西塔)が配されていたそうです。 しかし、平安中期に西塔が落雷で焼失。 東塔は、1180年(治承4年)12月の平重衡の 南都焼討 で焼失してしまいます。 南都焼討によって焼け落ちてしまった 東大寺 を復興させた 俊乗坊重源 は、1204年(元久元年)に東塔の再建に動き出します。 重源は1206年(建永元年)に入滅してしまいますが、栄西・行勇に再建計画が受け継がれ、重源入滅から20年が経った1227年(嘉禄3年)頃に完成したと考えられています。 ただ、再建された東塔も1362年(康安2年)に落雷で焼失してしまったそうです。 七重塔の相輪 1970年(昭和45年)に大阪で開催された日本万国博覧会で、古河グループは東大寺の七重塔を再現。 東大寺にある七重塔の相輪(そうりん)は、その頂に掲げられたもの。 万博終了後、七重塔は解体されてしまいますが、相輪は東大寺に寄贈されました。 創建当初の東大寺の伽藍 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 相模国分寺 741年(天平13年)の聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって、各国に国分僧寺と国分尼寺が一つずつ置かれます。 相模国の国分寺は海老名に置かれました。 七重塔 海老名駅前にある七重塔は、実物の約3分の1の大きさで建設された復刻版。 相模国分寺の復原模型 (海老名市温故館) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!