投稿

9月 11, 2022の投稿を表示しています

八王子の総鎮守:八幡八雲神社

イメージ
八幡八雲神社 は、武蔵七党の一つ横山党の本拠地だった多摩郡横山荘(現在の八王子市)に創建された神社。 横山党は、武蔵国や相模国に割拠した同族的武士団で秩父氏・梶原氏・和田氏・渋谷氏などと婚姻関係を結びながら勢力を拡大していきました。 しかし、1213年(建暦3年)の 和田合戦 で総帥の横山時兼が 和田義盛 に加担して敗れたことにより、横山荘は 大江広元 の領地とされ、歴史の表舞台から姿を消しました。 境内にある横山神社は、 大江広元 が横山党の始祖・横山義孝を祀るために建立したのだと伝えられています。 八幡八雲神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源実朝の勘気を蒙った東重胤と北条義時~鎌倉殿と和歌~

イメージ
東重胤(とうしげたね)は、千葉氏の一族・東胤頼の子( 千葉常胤 の孫)。 和歌に優れ、 源実朝 の寵愛を受けた武将。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1206年(建永元年)11月18日、重胤は実朝の勘気を蒙り籠居することに。 その理由は・・・ この年、重胤は突然に休暇をとって下総国へ帰ってしまい、数か月も出仕しなかったため、実朝が重胤に和歌を送って出仕を催促しますが、それでもなかなか戻って来なかったから・・・ 翌12月23日、重胤は、事の次第を 北条義時 に相談します。 義時は、 「そのようなことは長く続くことではありませんし、仕えている者であればよくあることです。 和歌を献じれば、ご機嫌も直るでしょう」 と話したのだと言います。 すると重胤はさっそく一首の和歌を詠みます。 感心した義時は重胤を連れて御所へ赴き、重胤の詠んだ和歌を実朝も前に置き、 「重胤が悲しんでおりました」 と申し上げると、実朝はその和歌を三度も詠じて、門の外にいた重胤を呼び寄せて、田舎の冬の景色などを訪ねたのだとか。 そして、引き下がる義時に重胤は手を合わせて感謝し、子々孫々まで仕えることを誓ったのだという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の菅谷館~嵐山町~

イメージ
武蔵国男衾郡畠山(現在の深谷市)で生まれた 畠山重忠 は、やがて、鎌倉街道の要衝にあたる菅谷(現在の比企郡嵐山町)の地に移ります。 国の史跡に指定されている 菅谷館跡 が重忠の館跡と考えられています。 畠山重忠像は、竹筋コンクリート製で1929年(昭和4年)に造られました。 ただ、現存する遺構は戦国時代のもので、重忠の時代のものとされる遺構は発見されていないのだそうです・・・ 菅谷館跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の生誕地~深谷市畠山~

イメージ
畠山館跡 畠山重忠 は、1164年(長寛2年)、武蔵国男衾郡畠山の地で誕生。 畠山氏は 秩父一族 で、重忠の父 重能 がこの地に進出して畠山を名乗りました。 館跡は、 北条時政 の謀略によって討たれた重忠主従の墓所にもなっています。 重忠主従の五輪塔 重忠産湯の井戸 畠山重忠像 館跡は、 畠山重忠公史跡公園 として整備されています。 畠山重忠像は、 一ノ谷の戦い の 鵯越 (ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 畠山重忠公史跡公園 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

大石段の13段目で源実朝は殺害された?~鶴岡八幡宮~

イメージ
三代将軍 源実朝 は、1219年(建保7年)1月27日、 鶴岡八幡宮 での右大臣拝賀式の後、甥の 公暁 に暗殺されました。 その場所が、大石段の13段目(下から数えて)という噂があるようです・・・ 13段目は、公暁が隠れていたという伝説が残された 大銀杏 の横ですが・・・ 『吾妻鏡』は・・・ 「神拝を終えた 実朝 が退出したところを 公暁 が石段の際で殺害した」と伝えているようです。 さらに、 上宮 の砌で公暁が「父の敵を討った」と叫んだのを聞いた者がいたと伝えています。 ということは、殺害現場は楼門を出たすぐの所ということなのでしょう。 石段の下には多くの随兵が待機していたでしょうから、 大銀杏 の近くまで下りたところを襲うというのは無理があるのかもしれません。 一方、『愚管抄』は石段を下りたところを襲われたと伝えているようです。 ただ、具体的な場所は語っていないようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ