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1月 10, 2021の投稿を表示しています

大庭景義に不思議な出来事が起こった月

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1188年(文治4年)10月、 大庭景義 が 鶴岡八幡宮 の 流鏑馬馬場 の辺りに警備のための小屋を建てた。 庭には多くの木が植えられ、紅葉は盛りの時だった。 10月20日、 源頼朝 がその建物に赴き、鶴岡八幡宮別当の円暁も参加して紅葉狩りの宴会が催され、酒宴の間には、稚児たちが延年の舞を踊った。 11月1日、 鶴岡八幡宮 の 流鏑馬馬場 の木が風もないのに倒れてしまう。 大庭景義の報告を受けて様子を見に行った頼朝は、馬や供物を奉げ、お祓いをしたのだという。 11月18日早朝、大庭景義邸の庭で狐が死んでいた。 怪異な事なので閉門したのだとか。 11月27日、相模国豊田庄の大庭景義の父景宗の墓が盗賊に攻められて掘り返され、納められていた重宝が盗まれた 追いかけて捜したが、逃げられてしまったのだとか・・・ 神明大神宮 (茅ヶ崎市) 神明大神宮 は、大庭景義が、館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉桜情報!ソメイヨシノ開花予想2021/01/13

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建長寺 桜は夏に翌年の春に咲く花芽が出来上がります。 ただ、葉から休眠ホルモンが出され、それ以上に進むことはなく休眠という状態になります。 休眠した花芽は、一定期間低温にさらされると休眠から覚めます(休眠打破)。 その後、気温上昇とともに生長して春に開花します。 今冬の花芽は、昨年末からの寒気の影響もあって休眠打破がスムーズに進み、全国的には例年より早い開花が予想されています。 1月13日発表の「ウェザーニュース」の開花予想によると、東京は3月18日に開花。 ここ数年のソメイヨシノは、休眠打破が鈍く、同じ場所でもバラバラに開花し、一本の樹でも満開になる前に葉が出て、早くから開花していた枝は満開になる前に散ってしまう状況が続いていました。 今年は、休眠打破がスムーズに進んでいるようですし、2月・3月の気温は平年より高いという予想が出ていますので、花芽の順調な生長が期待できそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鎌倉原産の桜~ (京都で人気を集めた鎌倉桜)

源頼朝の墓~法華堂跡~

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源頼朝墓 1199年(建久10年)1月13日に53歳で亡くなった 源頼朝 。 死因の詳細は不明。 亡骸は持仏堂に葬られ、その持仏堂は 法華堂 と呼ばれるようになります。 本尊は、頼朝が京都の 清水寺 から賜った 聖観音像 でした。 源氏重代の太刀 「髭切」 (ひげきり)も法華堂に納められていたと伝えられています。 1200年(正治2年)1月13日、法華堂で営まれた一周忌には、 北条時政 以下の御家人が参列。 導師は、我が国臨済宗の開祖 栄西 でした。 この時、 北条政子 は自らの髪の毛を除髪して刺繍したという 「梵字の曼荼羅」 を納めています。 1211年(建暦元年)、鎌倉へ下向して頼朝墓を訪れた 鴨長明 は、「草も木も なびきし秋の霜消えて 空しき苔を はらう山風」と詠んでいます。 1213年(建暦3年)の 和田合戦 時には、 源実朝 が避難しました。 1247年(宝治元年)に起こった 宝治合戦 では、五代執権 北条時頼 と戦って敗れた 三浦泰村 一族ら約500人が自刃しました。 法華堂は、誰も攻め入ることはできない聖域だったようです。 いつのころか分かりませんが、法華堂は、現在の 白旗神社 の地に移されます 現在の多層塔( 源頼朝墓 )は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたもの。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

渋沢栄一像~生地「中の家」~

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若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867 1867年(慶応3年)3月、渋沢栄一は、パリ万国博覧会に参列する徳川昭武(将軍徳川慶喜の弟)に随行してフランスへ渡ります。 このパリ万博は、日本が初めて参加した国際博覧会で、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展しています。 栄一は、約1年半のパリ滞在で経済や金融を学びました。 上の渋沢栄一像は、栄一の生地 「中の家」 に建てられています。 旧渋沢邸「中の家」 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉殿:北条政子

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1219年(建保7年)1月27日 、三代将軍 源実朝 が 公暁 に暗殺された。 『吾妻鏡』によると、実朝亡き後、鎌倉幕府を守り、天下を治めたのは 北条政子 だった。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 実朝 が暗殺される前年の1218年(建保6年)2月、 政子 は弟の 北条時房 を連れて上洛。 その目的は、子ができない実朝の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に皇族将軍の斡旋を相談するため。 2人の間では、頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたと考えられている。 1219年(建保7年)2月13日 、六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを将軍として迎えられるよう上申するため、二階堂行光を上洛させる。 3月15日 、新将軍の鎌倉下向について話し合わせるため、 北条時房 を代理として上洛させる。 『吾妻鏡』は、4月~6月の記事が欠落していることから、その後の交渉の詳細は不明だが・・・ 1221年(承久3年)5月19日の記事によると、後鳥羽上皇は 北条義時 に対して二度にわたって、長江庄と倉橋庄(後鳥羽上皇の妾・伊賀局(亀菊)に与えられていた荘園)の地頭職廃止の宣旨を下したが、義時が幕府の根幹を揺るがすとして拒否したため、上皇の怒りは凄まじかったのだという。 両者の交渉決裂は 承久の乱 の一因ともいわれる。 その後、政子と義時は、 親王将軍 を諦めて 摂家将軍 を迎えることとし、7月19日、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)が鎌倉殿として下向した。 ただし、三寅は2歳なので、政子が後見役となっている。 1221年(承久3年)3月21日 、波多野朝定を伊勢神宮へ遣わす。 夜明けに見た夢の中で二丈(6m)もある鏡が由比の海に浮かび、 「吾は大神宮である。天下を鑑みると世が乱れて徴兵することとなる。 やすらかな時は、吾を信心すれば平和になるであろう」 と告げられたからなのだとか・・・ 5月15日 、後鳥羽上皇が 北条義時 追討の宣旨を発布。 5月19日 、 安達景盛 を通して「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固め、上洛するよう命じる。 5月22日 、幕府軍19万騎が進軍開始。 6月14日 、 北条泰時 が 宇治 で、 北条時房 が 瀬