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1月 20, 2013の投稿を表示しています

源頼朝の幻の寺院:永福寺跡見学会2013/01/25

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源頼朝 が創建した幻の寺院: 永福寺 。 1月25日、復元された二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の基壇が公開されました。 源頼朝 は、1189年(文治5年)の奥州合戦の折に見た中尊寺二階大堂に感銘を受け、戦没者供養のために 永福寺 を建立したと伝えられています。 永福寺 は、 鶴岡八幡宮 (寺)・ 勝長寿院 に続いて創建された 源頼朝 の三大寺院の一つ。復元された基壇からその壮大さを伺うことができます。 永福寺 の三堂は、二階堂を中心に、北に薬師堂、南に阿弥陀堂が建てられ、三堂の前面には池が配されていました。 薬師堂と阿弥陀堂の外側には翼廊が設けられ、二階堂前には長い橋が架けられていたといいます。 浄土教式苑池の寺院建築としては最大級のものだったそうです。 その壮大な寺院も1405(応永12年)の炎上以後衰え廃絶しました。 ※庭園の整備は来年度以降に行われるようです。 (建物や庭園の橋は、復元される予定はないそうです。) 菜の花 が咲いていました。 永福寺跡 の北側は、春になると菜の花でいっぱいになります。 復元想像CG (製作:湘南工科大学:案内看板より) 永福寺跡 は、 世界文化遺産の候補地 です。 世界文化遺産候補21の史跡

まだこれから・・・荏柄天神社の寒紅梅2013/01/25

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荏柄天神社 拝殿前の 寒紅梅 。 まだ咲き始め・・・ 今日は初天神。 午前中には 筆供養 が行われていました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉:梅の名所 鎌倉手帳

鎌倉の節分情報2013

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今年の 節分 は2月3日。 鶴岡八幡宮 午後1時から。式典後に 「鳴弦式」 と「豆撒き」。 (豆拾い参加者には入場制限があります。) 鎌倉宮 午後3時から。式典後に「鬼やらい神事」と「豆撒き」。 建長寺 午前11時から。豆撒きの前に「かっぽれ」が奉納されます。 長谷寺 正午より豆撒き。高砂部屋の力士が参加します。 龍口寺 午後1時より 水行 。午後2時より法要と豆撒き。 遊行寺 午後1時と2時30分に豆撒き。 江島神社 午後12時3分から。1時より豆撒き。 節分の水行 ( 龍口寺 ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉の節分祭 鎌倉手帳

逗子開成中学のボートが遭難した日

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1910年(明治43年)1月23日、逗子開成中学の生徒12人は、 江の島 までの旅に出て、その帰路、 七里ヶ浜 の沖で遭難してしまいます。 七里ヶ浜 この事故によって生徒12人の全員が死亡しました。悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が作詞したのが「七里ヶ浜の哀歌」。 稲村ヶ崎 の ボート遭難碑 「七里ヶ浜の哀歌」の歌詞は、 ボート遭難碑 にはめ込まれています。 真白き富士の嶺、緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙 歸らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる、胸と心 ボートは沈みぬ千尋の海原 風も浪も小さき腕に 力も尽き果て呼ぶ名は父母 恨みは深し七里ヶ浜辺 み雪は咽びぬ風さえ騒ぎて 月も星も影を潜め みたまよ何処に迷いておわすか 歸れ早く母の胸に みそらにかがやく朝日のみ光 暗に沈む親の心 黄金も宝も何にし集めん 神よ早く我も召せよ。 雲間に昇りし昨日の月影 今は見えぬ人の姿 悲しさあまりて寝られぬ枕に 響く波の音も高し 帰らぬ浪路に友呼ぶ千鳥に 我も恋し失せし人よ 尽きせぬ恨みに、泣くねは共々 今日も明日もかくてとわに 稲村ヶ崎 https://www.yoritomo-japan.com/page136inamura.htm

鎌倉:宝戒寺の太子講

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聖徳太子は、用明天皇の第二皇子。 推古天皇のもとで摂政として政治を行い、遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度を取り入れ、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家を確立させました。 一方で、難波に四天王寺、斑鳩に法隆寺を建立するなど、仏教を厚く信仰し、その興隆に努め、日本最初の仏教文化(飛鳥文化)を開花させました。 太子は、大陸から渡来した宗教とともに学問や技術を積極的に取り入れ、工芸技能者の保護育成を図り、個人の才能を尊重するという方針をとったことから職人の守護神として信仰されるようになります。 そのため、各地の寺院には、太子の尊像を祀った太子堂が建てられています。 宝戒寺 の 太子堂 (聖徳太子の2歳尊像が祀られています。) 宝戒寺 では、聖徳太子の忌日に当たる1月22日に、鎌倉周辺の職人が参列して「護摩供」が行われます( 太子講 )。 太子講 の様子 太子講 は午後1時から。 鎌倉手帳

大僧正・行基~東大寺の大仏造立に功績のあった僧~

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聖武天皇より大僧正の位を授けられた 行基 。 一般民衆に仏教の布教が禁じられていた時代に民衆に仏教の教えを説き、築港・堤防・貯水池などの設置といった社会福祉事業も行っていました。 行基 は、日本各地を伝道しながら、その先々で寺院を建立しています。 そのため、大きな力を持った 行基 は、朝廷から弾圧されていたといいます。 ~鎌倉周辺にも行基ゆかりの寺社があります。~ 鎌倉最古の杉本寺 鎌倉最古の甘縄神明神社 満福寺 ・・・行基が草庵を結んだのが始まり。 長谷寺 ・・・ 十一面観音像 は行基によって海に流された。 白山神社 ・・・ 源頼朝 が安置した毘沙門天は行基作といわれる。 円光寺 ・・・行基作の秘仏:薬師如来像。 辻の薬師堂 ・・・行基作の薬師如来像。 補陀洛寺 ・・・行基作の薬師如来像。 虚空蔵堂 ・・・行基作の秘仏:虚空蔵菩薩像。 延命寺 (逗子) ・・・行基作の地蔵菩薩。 法勝寺 (逗子) ・・・大蛇伝説と十一面観音像。 神武寺 (逗子) ・・・行基作の仏像を祀ったことがはじまり。 岩殿寺 (逗子) ・・・行基作の十一面観音 飯山観音 (厚木) ・・・行基作の秘仏:十一面観音。 星谷寺 (座間) ・・・行基作の聖観音。 弘明寺 (横浜) ・・・行基作の十一面観音。 高久神社 (大磯) ・・・前身の高麗寺は行基の創建。 王福寺 (大磯) ・・・行基創建。 743年(天平15年)、聖武天皇は、「仏をあがめるものが団結し、一枝の草、一把の土をもちより、心をひとつにして大仏をつくってほしい。」という大仏造立の詔を発します。 しかし、当時の民衆は疲弊しきっていました。 大仏を造るには、民衆の力を引き出してくれる人物が必要でした。 そこで聖武天皇は、民衆に圧倒的な影響力を持っていた行基に協力を求めたのです。 そして、近江国の信楽京で大仏造りが開始されます。 (※信楽京での大仏造立は失敗し、745年(天平17年)、平城京で再び造立が開始されています。) 奈良の大仏 752年(天平勝宝4年)、鋳造が終わった大仏の開眼供養が行われ、行基は導師を務めたといいます。 行基堂

寒中神輿錬成大会2013/01/20

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江の島 の片瀬東浜で行われた 寒中神輿 。 四基の神輿が海へ・・・ 鎌倉手帳

鎌倉:光則寺のロウバイとツバキ2013/01/20

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まだまだ蕾が多い 光則寺 の ロウバイ 残雪の白に ロウバイ の黄が映えます。 池のほとりに植えられている ツバキ 侘助(太郎冠者) 雪が残る 光則寺 の庭園 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉のツバキ 鎌倉のロウバイ 鎌倉手帳