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武蔵国留守所惣検校職と畠山重忠の乱

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畠山重忠像 (深谷市:畠山重忠史跡公園) 武蔵国留守所総検校職 は、武蔵国の武士団の統率権・動員権を持った在庁官人のトップ。 秩父重綱が就いて以後、秩父重隆・ 河越重頼 ・ 畠山重忠 に継承されていきました。 1203年(建仁3年)9月2日、二代将軍 源頼家 の乳母夫 比企能員 を滅ぼして幕府の実権を握った 北条時政 は、9月10日、御家人に対して所領を元のとおり認めるという文書を発行。 10月27日には、 和田義盛 の奉行により、武蔵国の武士団に対して時政に背くことのないように命を下しています。 さらに、当時の武蔵国の国守は時政の娘婿の 平賀朝雅 でしたが・・・ 武蔵国武士団の統率権は「惣検校職」の 畠山重忠 にありました。 武蔵国を完全な形で支配下に置きたい 時政 は・・・ 1205年(元久2年)6月22日、謀略によって重忠を滅亡させます( 畠山重忠の乱 )。 畠山重忠の乱 は、時政の後妻牧の方の讒言から始まったともいわれますが、もともとは武蔵国をめぐる時政・平賀朝雅父子と重忠の対立が原因と考えられるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源範頼の子が別当を勤めた深大寺

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源氏の尊崇を受けて天台密教の関東第一の道場として興隆したという調布市の 深大寺 。 東京都では浅草の 浅草寺 に次ぐ古刹。 源範頼 が 修禅寺 でで滅ぼされた後、 比企尼 の嘆願で助命された範頼の子範円・源昭は 深大寺 に住み、源昭は別当になったのだといいます。 源昭は 慈光寺 (埼玉県ときがわ町)の別当も兼ねていたのだとか。 鎌倉幕府の最後の将軍 守邦親王 の子守慧も別当を勤めたのだと伝えられています。 深大寺 は「深大寺そば」で知られています。 江戸時代、深大寺の寺領は稲作に不向きだったため蕎麦が栽培され、小作人は「そば粉」を納めていたそうです。 深大寺で来客のために打たれた蕎麦が「深大寺そば」のはじまりなのだとか。 深大寺 を訪れた際、蕎麦で接待された 上野寛永寺 の公弁法親王が将軍家や諸大名に推奨したことで「深大寺そば」の人気が高まり、「献上蕎麦」として全国に知られるようになったのだと伝えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の先祖・秩父氏の本拠地に鎮座する椋神社

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椋神社 は、 畠山重忠 の先祖秩父氏が本拠とした秩父市下吉田に鎮座する神社。 深谷市の 重忠の生誕地 にある 井椋神社 は、この神社が勧請されました。 境内の八幡宮は 秩父氏館 の鎮守として勧請されました。 椋神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の先祖・秩父氏の館跡

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武蔵国秩父郡吉田郷を本拠とした 秩父氏の館跡 。 秩父氏は重綱がの 「武蔵国留守所惣検校職」 に就き、武蔵国内の武士を統率・動員する権限を持って勢力を伸ばします。 やがて秩父氏は武蔵国の各地に進出。 重綱の長男・重弘の子重能は畠山氏 二男・重隆の孫は河越氏 三男の重遠は高山氏 四男の重継は江戸氏を称して勢力を拡大していきました。 碑に刻まれているのは万葉集に載せられているもの。 「武蔵嶺の小峰見隠し忘れ行く君が名懸けて我を音し泣くる」 (武蔵の山々の小峰に向かって、遠ざかっていく忘れられないあの人、その名を口にすると泣けてくる) 「大君の命畏み愛しけ真子が手離り島伝ひ行く」 (大君の仰せを恐れ多いと思い、愛しいあの子の手を離し、島伝いに航行していく) 秩父氏館 は、秩父市立吉田小学校周辺だったと考えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼家の墓と北条政子建立の指月殿~修禅寺~

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征夷大将軍左源頼家尊霊 1204年(元久元年)7月18日、 源頼家 は刺客に襲われて亡くなります(享年23)。 筥湯 に入浴中に襲われたという説も。 源頼家の墓 「征夷大将軍左源頼家尊霊」と刻まれた石中は記念碑。 墓はその裏にある小さな五輪塔。 三基あるようですが、 頼家 ・側室の 若狭局 ・嫡男の 一幡 のものという説も・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 指月殿 指月殿 は、 北条政子 が 源頼家 の冥福を祈るために建立した経堂。 本尊は蓮の花を持った釈迦如来坐像。 政子 は 頼家 の菩提を弔うために、数千巻にも及ぶ「宋版放光般若経」を納めたのだといいます。 修禅寺 に残されている巻ニ十三の巻末欄外には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」の墨書があって、政子の直筆といわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ