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8月 12, 2018の投稿を表示しています

木曽義仲の嫡子・義高終焉の地~狭山市:清水八幡宮~

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清水八幡宮は、清水冠者と呼ばれていた 木曽義仲 の嫡男・義高を祀る社。 1184年(寿永3年)正月20日、 源頼朝 は、義仲を近江国粟津で滅ぼすと、4月26日には人質として鎌倉にいた義高も入間河原で誅殺します。 (参考) ★木曽義高の誅殺 義高は入間河原に葬られ、 北条政子 が供養をしたのだと伝えられています。 この建物内部には、江戸末期に発見された石祠が安置されているそうです。 石祠には義高の事跡が彫られているのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

木曽義仲の産湯清水が湧く鎌形八幡神社~嵐山町~

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鎌形八幡神社 は、延暦年間に坂上田村麻呂が宇佐八幡宮の神霊を迎えて祀ったのが始まりと伝えられる社。 源頼朝 や 北条政子 も信仰したのだといいます。 義仲産湯の清水 境内には、 木曽義仲 の産湯に使われたという 清水 が今も湧き出ています。 本殿が納められている覆屋 鎌形八幡神社には、阿弥陀如来像が鋳られた懸仏(安元2年銘)と薬師如来像が鋳られた懸仏(貞和4年銘)が伝えられています。 安元2年銘のものには「奉納八幡宮宝前 安元二年丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と刻まれているといいます。 源義高は 義仲 の嫡子。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源義賢の墓~嵐山町~

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源義賢の廟堂 源義賢は、河内源氏の棟梁・ 源為義 の次男。 源頼朝 の父・ 義朝 は異母兄。 堂の中には五輪塔。 義賢は、兄 義朝 に対抗するため、武蔵国比企郡大蔵に館を構えて勢力を伸ばしつつありましたが、1155年(久寿2年)8月16日、義朝の長男・ 義平 に 大蔵館 を攻められ最期を遂げました。 大蔵館で生まれたという次男の駒王丸(のちの 木曽義仲 )は、信濃国の 木曽谷 へ逃れています。 義賢は、東宮体仁親王(のちの近衛天皇)を警護する帯刀の指揮官 を務めたことから帯刀先生(たちはきのせんじょう)と呼ばれていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

木曽義仲の父・源義賢の大蔵館跡(嵐山町:大蔵神社)

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大蔵神社は大蔵館跡に建てられた社。 大蔵館 は東宮帯刀先生と呼ばれた源義賢の居館。 義賢は平安末期の武将で河内源氏の棟梁・ 源為義 の次男。 大蔵館を拠点に勢力を伸ばしますが、異母兄 義朝 の長男 義平 に攻められ大蔵館で最期を遂げています。 大蔵館があった武蔵国比企郡は鎌倉街道の要衝の地。 鎌倉時代には都幾川対岸の菅谷の地に 畠山重忠 が 菅谷館 を築いています。 都幾川 嵐山町の名は、都幾川の風景が京都の嵐山に似ていることに由来するのだとか。

源頼朝が始めた放生会を起源とする鶴岡八幡宮例大祭

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鶴岡八幡宮 の 例大祭 は、 源頼朝 が始めた放生会を起原としているそうです。 『吾妻鏡』によると、頼朝が最初に放生会を催したのは1187年(文治3年)8月15日。 放生会の後には 流鏑馬 が奉納されています。 そして、1190年(建久元年)から二日間の祭事となり、流鏑馬は放生会の翌日(16日)に行われるようになりました。 現在は、9月14日から16日の三日間で行われています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 浜降式 浜降祭 は、例大祭前日の9月14日早朝に行われる祭事。 身を浄(清)めるために宮司以下祭人が海に入って禊(みそぎ)をします。 浄めのしるしとして採取された海草が境内各所に掲げられ、夕刻(午後6時)から宵宮祭(前夜祭)が行わます。 神幸祭 9月15日は、午前10時から例大祭。 祭事を終えると舞殿で八乙女の舞が奉仕されます。 午後1時からは 神幸祭 。 応神天皇、比売神、神功皇后の神輿が 若宮大路 の御旅所( 二の鳥居 )まで渡御します。 八乙女の舞 御旅所でも「八乙女の舞」が奉仕されます。 流鏑馬 最終日(9月16日)は小笠原一門による 流鏑馬 が奉納されます(午後1時から)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm