別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年8月22日金曜日

教恩寺の阿弥陀如来~南都焼討の平重衡と鎌倉の源頼朝~


阿弥陀如来


鎌倉の教恩寺阿弥陀如来像は、平重衡の念持仏だったと伝えられているもの。

平重衡は平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月28日、奈良の東大寺興福寺を焼いた武将として知られています(南都焼討)。

1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いでは、生田の森を守備していましたが、梶原景時らに捕えられてしまいました。

鎌倉に送られてきた重衡は、源頼朝からこの阿弥陀如来像を与えられたのだといいます。

運慶作とも伝えられている像ですが、快慶風の作風が感じられる像として、神奈川県の有形文化財に指定されています。



1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、6月23日、木津川で斬首されました。

京都にある重衡の墓は、妻の藤原輔子が建てたもの。

そこには東大寺復興の大勧進・俊乗坊重源の気遣いがあったのだとか。



教恩寺


南都焼討









☆ ☆ ☆ ☆ ☆

南都焼討後の復興事業で活躍したのが運慶率いる慶派仏師。

運慶


東大寺

東大寺南大門



興福寺

興福寺北円堂


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


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2025年8月18日月曜日

運慶と北条時政の願成就院と和田義盛の浄楽寺


(伊豆の国市)

願成就院は、『吾妻鏡』の記載によると、1189年(文治5年)に北条時政源頼朝奥州討伐の戦勝を祈願して建立したという寺院。


(横須賀市)

浄楽寺の創建時期等は不明ですが、願成就院と同じく、1189年(文治5年)に和田義盛が奥州征伐の戦勝を祈願して建立したと考えられています。


この2つの寺院には、運慶の真作が置かれています。

願成就院の運慶仏は、胎内銘札から1186年(文治2年)に北条時政の発願によって造立されたことが確認されています。

浄楽寺の運慶仏は、1189年(文治5年)に和田義盛の発願によって造立されたものであることが確認されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


近年、願成就院は、運慶の造仏が1186年(文治2年)であることから、それ以前に建立された考えられています。

1186年(文治2年)は平家が壇ノ浦で滅亡した翌年。

まだ奥州討伐が計画されていない時代。

とすると、奥州征伐の祈願寺として創建されたのではないようです。

時政は一族の繁栄と源平の争いにより疲弊していた民衆のために、運慶に造仏を依頼したのではないでしょうか。

浄楽寺の運慶仏は、奥州征伐が行われた年に造仏されていますが、頼朝が奥州征伐を決定したのは源義経が奥州で自刃した閏4月30日以降。

運慶仏はその前の3月20日造立。

やはり、奥州征伐の戦勝祈願のため​ではなさそうです。



運慶願経

運慶は1180年(治承4年)の南都焼討で、東大寺興福寺が焼け落ちるのを目の当たりにした仏師。

平和と南都復興を願っていました。



9月9日(火)から東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が開催されます。

北円堂の諸仏は運慶が造立した南都焼討後の復興仏。



運慶








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


東大寺


興福寺


歴史めぐり源頼朝


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2025年8月13日水曜日

成朝~源頼朝が鎌倉に呼んだ奈良仏師の正嫡~


興福寺


成朝は、平安時代末から鎌倉時代にかけて興福寺を拠点に活躍した奈良仏師の正系。

ただ、成朝の真作とされている仏像は現存していません。


奈良仏師は、藤原道長法成寺の造仏を担当して、仏師としてはじめて僧綱位(法橋)を得た定朝の流れをくむ仏師集団。

定朝以後、直系の院派・円派及び奈良仏師には僧綱位が与えられてきましたが、奈良仏師では・・・

正系の成朝より先に法橋の地位を得た仏師がいます。

それは、運慶の父康慶。

1177年(治承元年)、康慶は後白河法皇蓮華王院に建立された五重塔の造仏を任されて法橋の地位を得ました。

1164年(長寛2年)に蓮華王院が創建された際に中心となって造仏にあたったのは成朝の祖父・康助でしたが、五重塔の造仏は康助の弟子といわれている康慶だったのです。

では、何故、康慶だったのか?

詳しいことは不明ですが、康慶は単なる弟子ではなく成朝の祖父・康助あるいは父の康朝と何らかの血縁関係にあったと考えられているようです。

そして、奈良仏師の後継者は成朝ではなく康慶という動きがあったのかもしれません。


その後・・・


1180年(治承4年)12月28日、平重衡南都焼討により奈良仏師が拠点としていた興福寺が焼失します。

翌年から興福寺の復興事業が始まりますが、無位の成朝は金堂・講堂の造仏をめぐって京都仏師の院尊(院派)や明円(円派)と争いますが、任されたのは食堂の造仏でした。

興福寺の信頼を得ていたという法橋の康慶は南円堂の造仏を任されています。


しかし、成朝は食堂の造仏を開始しないまま、1185年(元暦2年)5月21日、源頼朝の南御堂(勝長寿院)の本尊造仏のため鎌倉に下向(『吾妻鏡』)。

10月21日には、金色の阿弥陀仏が勝長寿院に運び込まれていますが、成朝はその後も鎌倉に滞在し、翌年3月2日には、興福寺東金堂の造仏を院派の院性が望んでいることを知って、頼朝に東金堂造仏の権利が自分にあることを訴えています。

頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出していますが・・・

食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に僧兵が飛鳥山田寺から奪取したものが充てられています。

鎌倉から奈良に戻った後の成朝の行動は不明ですが、1194年(建久5年)、「金堂弥勒浄土」造仏の功により、法橋に補任されたようです。

ただ・・・

南円堂の造仏を担当した康慶は、その上の法眼になっていました。

翌年には康慶の子運慶も法眼になっています。


成朝の没年は不明ですが、「金堂弥勒浄土」の造仏が記録に残されている最後の事績。

そして、康慶・運慶をはじめとする慶派の時代が到来します。

成朝は、時世に恵まれなかったのかもしれませんが、その作品が現存していない今、その実力を知ることはできません。


最後に、源頼朝は、何故、勝長寿院の造仏を康慶や運慶ではなく成朝に依頼したのか?

それは、成朝が定朝の嫡流だからといわれています。

系統や血筋を重視する頼朝らしい選び方だったのかも。




興福寺


興福寺南円堂

興福寺北円堂

興福寺中金堂


運慶


南都焼討


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間








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南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


東大寺


歴史めぐり源頼朝


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2025年7月28日月曜日

南都焼討の罪で処刑された平重衡の墓


平重衡は、平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月12日、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王を匿った園城寺を焼き払い、12月28日には、東大寺興福寺の反平家勢力を一掃するため、南都を焼討ちしたことで知られる武将。

1184年(寿永3年)2月7日の一ノ谷の戦いで捕らえられ、一時、鎌倉の源頼朝のもとにいましたが、1185年(元暦2年)、平家が壇ノ浦で滅亡すると南都衆徒に引き渡されて、6月23日、木津川で斬首されました。



京都の日野にある平重衡の墓は、妻の藤原輔子が築いたもの。

木津川で斬首された重衡の首は奈良の般若寺に晒されましたが、輔子は東大寺再興の大勧進だった重源に請うて首をもらい受け、捨てられていた胴体とともに日野の法界寺で荼毘に付し、灰塚を築いて、骨は高野山に納めたのだと伝えられています。

重衡の供養の後、輔子は大原の寂光院に隠棲していた建礼門院に仕えて余生を過ごしたのだといいます。

建礼門院は重衡の姉。


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教恩寺

鎌倉の教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、源頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたものだと伝えられています。




南都焼討


一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~








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源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2025年7月27日日曜日

平家打倒の令旨を発した以仁王終焉の地~木津川の高倉神社と陵墓~


以仁王は後白河法皇の第三皇子。

1180年(治承4年)4月9日、源頼政にすすめられ、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発しますが、5月の初旬には平家方に露見。

5月19日、園城寺(三井寺)に逃れますが、5月26日には東大寺興福寺の僧兵を頼るため南都へと向かいます。

しかし、平知盛、維盛ら2万の軍勢に攻められ、頼政は宇治の平等院で討死。

頼政が平等院で戦っている間、以仁王は興福寺へと向かいますが、木津川の光明山寺の鳥居の前で討たれたのだと伝えられています。



高倉神社は、以仁王終焉の地にある以仁王を祀る社。




高倉神社の隣接地には以仁王の墓があります。




以仁王の墓の南にある浄妙塚と呼ばれる墳墓は、以仁王に従って奮戦した園城寺の僧兵・筒井浄妙の墓とされています。

祇園祭の後祭に巡行する浄妙山の御神体は、筒井浄妙と弟子の一来法師。


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以仁王の平家打倒の計画は失敗に終わりましたが、8月17日には伊豆の源頼朝が挙兵。

甲斐の武田信義や信濃の木曽義仲なども挙兵。

以仁王の死から5年後の1185年(元暦2年)3月24日、平家は壇ノ浦で滅亡しました。



以仁王の令旨と源頼朝

平家打倒の命令書~以仁王の令旨~









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源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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