別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


ラベル 源頼朝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 源頼朝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年12月15日月曜日

建久2年の大火と鶴岡八幡宮の再建~御鎮座記念祭 御神楽~




鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した由比若宮に始まります。

1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷に遷して武家の都の中心に据えました。

翌年には仮宮を立て直し、新造の正殿に御神体が納められています。

1182年(養和2年)には参道の若宮大路も整備されました。

静御前が舞い、流鏑馬が行われ、頼朝の母由良御前の供養のための五重塔が建てられた鶴岡八幡宮でしたが・・・


鶴岡八幡宮


1191年(建久2年)3月4日、小町大路で火事が発生。

強風にあおられた火は、北条義時、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、仁田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼き、鶴岡八幡宮五重塔に燃え移ります。

この火事により鶴岡八幡宮は悉く灰燼に帰してしまいました。

3月6日、焼失した鶴岡八幡宮を見た頼朝は涙を流したといいますが、8日には再建工事に着手します。

そして、若宮再建とともに上宮(本宮)を創建し、11月21日に遷宮が行われました(改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しています。)。

上宮の建設は、火事による被害を防ぐためだったと考えられています。



御鎮座記念祭

毎年12月16日に行われている「御鎮座記念祭」(御神楽)は、遷宮の際に行われた儀式を再現したものです。

頼朝は、遷宮の日に「宮人曲」を唄わせるため、京都から雅楽家の多好方を招いていました。

好方が「宮人曲」を唄うと、神が感応するほどのめでたい出来事の前ぶれだとして、頼朝も感激したのだといいます。



鶴岡八幡宮

御神楽


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


初詣:鶴岡八幡宮


神楽始式
1月1日

御判神事
1月1日~7日

手斧始式
1月4日

除魔神事
1月5日

左義長
1月15日

鶴岡厄除大祭
1月30日~2月1日


よりともジャパン.com



2025年11月17日月曜日

伊豆山にあった快慶の阿弥陀如来~熱海 伊豆山神社~


明治の神仏分離までの伊豆山には、上常行堂と下常行堂がありました。

上常行堂と下常行堂の本尊は木造阿弥陀如来坐像(宝冠阿弥陀)。


快慶の阿弥陀如来

下常行堂にあった阿弥陀如来は、運慶とともに東大寺金剛力士像を造立した快慶作の宝冠阿弥陀如来坐像。

現在は、大正・昭和期の実業家金本耕三(耕三寺耕三)に収集され、耕三が広島県尾道市に開いた耕三寺の所蔵。

運慶は北条時政和田義盛北条義時北条政子などに依頼により東国で多くの造仏に携わりましたが、快慶が東国の造仏に携わったという確証のあるものは、伊豆山の阿弥陀如来と栃木県足利市真教寺の阿弥陀如来のみ。


上常行堂の阿弥陀如来

上常行堂にあった阿弥陀如来は、神仏分離後、逢初地蔵堂に移されていましたが、現在は伊豆山神社境内にある伊豆山郷土資料館に収蔵されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



この仏像は、鎌倉の教恩寺阿弥陀如来像

運慶作と伝えられていますが、作風からすると快慶あるいはその周辺の仏師の作ではないかといわれています。



快慶の阿弥陀如来


伊豆山神社


伊豆山神社 新嘗祭


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


熱海と源頼朝の伝説

伊豆・箱根の二所詣

あたみ桜


歴史めぐり源頼朝


よりともジャパン.com


2025年10月27日月曜日

実慶の阿弥陀三尊~北条時政が造立させた仏像~




函南町の「かんなみ仏の里美術館」に所蔵されている阿弥陀三尊像(阿弥陀如来及両脇侍像)は、慶派仏師・実慶の作。

北条時政石橋山の戦いで討死した長男・宗時の慰霊のために造立させたものと考えられています。




阿弥陀如来の首枘(くびほぞ)の裏には「大仏師實慶」の墨書があるらしい。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いでの敗北後、時政と次男の義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようですが・・・

宗時は平井郷を目の前にして伊東祐親軍に討たれてしまったようです。




函南町には北条宗時の墓と伝えれる塔が残されています。

『吾妻鏡』によると、1202年(建仁2年)6月1日、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の墳墓堂で追善供養を行っているようです。

阿弥陀三尊像もこの頃に造立されたのかもしれません(「かんなみ仏の里美術館」の説明では建久年間(1190~1198年)の末頃とされています。)。

時政といえば、願成就院の造仏を運慶に依頼したことで知られていますが・・・

このころの運慶は東大寺大仏殿の造仏に携わり、1203年(建仁3年)には南大門に快慶らとともに造立した金剛力士像が安置されています。

実慶は、運慶が1183年(寿永2年)に完成させた「運慶願経」に名を連ねている慶派の有力仏師。

運慶や快慶が南都復興の造仏に携わっている間、実慶は東国での仏像需要に応じた活動をしていたようです。

1210年(承元4年)には、修禅寺大日如来像を造立しています。




願成就院の運慶仏

願成就院


実慶の大日如来と納められていた3束の頭髪


修禅寺


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


運慶


運慶 祈りの空間


よりともジャパン.com


2025年10月25日土曜日

2026年は午年。青馬「池月」が現れた千束八幡神社


千束八幡神社


東京都大田区の洗足池に鎮座する千束八幡神社は「旗挙げ八幡」とも呼ばれる古社。

1180年(治承4年)、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったという源頼朝の前に野馬が飛来。

「池に映る月影のよう」であったことから「池月」と名付けられたのだとか・・・

千束八幡神社は名馬池月発祥の社。


名馬池月

1184年(寿永3年)の木曽義仲追討(宇治川の戦い)の際に頼朝から池月を与えられた佐々木高綱は、同じく磨墨を与えられた梶原景季宇治川の先陣争いを繰り広げました。

池月は、その余生を高綱館があった鳥山(横浜市港北区)で過ごしたのだといわれています。

高綱は鳥山に駒形明神を建てたと伝えられていますが、今はなく、その代わりに馬頭観音堂が残されています。


千束八幡神社
池月の絵馬

池月は、青い毛並みで白の斑点を浮かべていたのだとか。

古代の宮中では正月7日に「白馬節会」(あおうまのせちえ)が行われ、青馬を見ることでその一年の邪気が除かれるとされてきました。

白馬」と書かれるようになったのは平安中期頃からで、それまでは青馬が用いられてきましたが、白馬を用いるようになったために名称が変化したのだとか。




千束八幡神社


名馬 池月








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鎌倉 初詣情報


鎌倉 新年のイベント


よりともジャパン.com


2025年10月12日日曜日

瀬戸神社の舞楽面~抜頭面は運慶が彫った?~


横浜市金沢区の瀬戸神社には、源実朝が愛用したというふたつの舞楽面が所蔵されています。


抜頭

抜頭(ばとう)面の裏には運慶が彫刻したという銘が残されています。

これは、のちに追記されたものともいわれ、運慶作と断定されてはいませんが、慶派の仏師によるものであることは間違いないようです。


陵王

もう一つは、陵王(りゅうおう)面。

鶴岡八幡宮陵王面とほぼ同じ形式のもの。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



瀬戸神社は、1180年(治承4年)に源頼朝が崇敬していた伊豆の三嶋大社を勧請して創建した社。



瀬戸神社の社頭の琵琶島弁財天は、北条政子が琵琶湖の竹生島の弁財天を勧請したのだと伝えられています。



運慶


三嶋大社

竹生島









☆ ☆ ☆ ☆ ☆



運慶 祈りの空間

宝物風入


鎌倉の紅葉

北鎌倉の紅葉


よりともジャパン.com