別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年1月6日月曜日

源頼朝の夢に現れた白蛇~熱海:みそぎの滝~




まだ、源頼朝が伊豆の流人だった頃。

日金山伊豆山に源氏再興を祈願していた頼朝は、みそぎの滝で身を清めていたのだといいます。

伝説によると・・・

禊を終えた頼朝が草むらでまどろんでいると滝の中に白蛇が現れて挙兵を促したのだとか。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



日金山東光寺は、伊豆山神社の元宮でした。

伊豆国蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、日金山東光寺の地蔵菩薩を信仰し、源氏再興を祈願していたのだといいます。




伊豆山神社は、古来、伊豆山権現・走湯権現とも称され、源頼朝北条政子が崇敬した社。



熱海と源頼朝の伝説

伊豆山神社


あたみ桜








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


伊豆・箱根の二所詣


伊豆山神社

箱根神社

三嶋大社


源頼朝挙兵


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2024年12月12日木曜日

鎌倉殿と武家の都が誕生した日


1180年(治承4年)10月、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った源頼朝は、由比郷にあった鶴岡若宮(由比若宮)を小林郷北山に遷し、鶴岡八幡宮を中心とした街づくりを始めます。

同時に、先祖・源頼義が館を構えていたという大倉郷に御所の建設を始めました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)12月12日、源頼朝大庭景義が大倉郷に建てていた新造の御所に移ります。

午前10時頃、水干を着た頼朝が上総広常の屋敷を出発。

馬は石和栗毛。

和田義盛が先頭、次に頼朝、頼朝の左には加々美長清、右には毛呂季光。

続いて北条時政北条義時足利義兼、山名義範、千葉常胤、千葉胤正、千葉胤頼、安達盛長土肥実平岡崎義実、工藤景光、宇佐美助茂、土屋宗遠、佐々木定綱佐々木盛綱らが従い、一番最後は畠山重忠でした。

御所に到着して頼朝が寝殿に入ると、供の者たちは侍所に対座。

その中央に座ったのは侍所別当の和田義盛でした。

出仕した者は311人。

そして、頼朝は「鎌倉の主」に推戴されました。

鎌倉殿の誕生です。



若宮大路


鶴岡八幡宮を中心に整備された鎌倉には、御家人たちも宿や館を構えました。

鎌倉は辺鄙な所でしたが、街中の道を真っすぐにして、郊外の村にも名が付けられ、家が建てられたのだといいます。

鎌倉殿の誕生とともに武家の都も誕生したということなのでしょう。





鶴岡八幡宮は、北条時政の先祖といわれる平直方から鎌倉の地を譲り受けた頼朝の先祖・頼義が創建しました。

源氏の氏神・石清水八幡宮の祭神をお迎えし、由比郷鶴岡の地に創建されたことから鶴岡若宮(由比若宮)と呼ばれていました。



(大倉御所跡)

頼朝の御所鶴岡八幡宮の東側に建てられました。

御所は、のちに大倉幕府(鎌倉幕府)と呼ばれます。

鎌倉幕府とは鎌倉の武家政権のことで、その成立時期については様々な意見があるようですが、頼朝が幕府という語を使ったことはないようです。

武家政権=幕府とされたのは江戸時代後半のこと。

したがって、徳川家康に「江戸幕府」と言っても「何の事?」と言われてしまうのかもしれません。

参考までに・・・

鎌倉検定では、武士として初めて幕府を開いた人物を頼朝としていますが、武家政権を樹立させたのは平清盛

近年では清盛の六波羅福原も幕府であるという提唱がなされています。




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源頼朝挙兵

源頼朝鎌倉入り








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2024年10月7日月曜日

「武家の都」の歴史が始まった日~源頼朝、鎌倉入り~


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)10月6日、源頼朝が率いる大軍が相模国へ。

翌日、鎌倉入りを果たした頼朝は、まず先祖の源頼義が建てた鶴岡八幡宮(由比若宮)を遥拝し、父の源義朝の旧跡(館跡)を訪問します。



由比若宮

鶴岡八幡宮(由比若宮)は、1063年(康平6年)に前九年の役を平定した源頼義が創建した社。

出征する際、頼義は源氏の氏神である石清水八幡宮に戦勝を祈願。

その願いがかなえられたことを感謝して鎌倉の由比郷に石清水八幡宮を勧請したのだといわれています。

鎌倉に入った頼朝は、この社を小林郷に遷座し、武家の都の中心に据えました。




壽福寺源義朝の鎌倉之楯の跡に建てられた寺。

義朝はここを拠点に勢力の拡大を図り、鎌倉権五郎景政が開墾した大庭御厨の支配権に介入しています。

鎌倉に入った頼朝は義朝の旧跡に御所を置こうと考えていたようですが、土地が狭く、岡崎義実が建てた亡き父の御堂もあったことから、大倉(大蔵)の地を選んだのだといいます。

大倉(大蔵)には先祖の頼義館があったことも理由の一つのようです。




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2024年8月18日日曜日

源頼朝、読経を伊豆山の法音に代行してもらう~源氏再興の挙兵!~


1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れた源頼朝は、翌年、伊豆流罪となりました。

日々の読経をおこたらず、父・源義朝や鎌田政長らを弔いながら日々を送っていたそうです。

そして、1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵

目代の山木兼隆を討ったのですが・・・

これから相模国へ進軍しなければなりません。

そうすると続けてきた読経がおろそかになってしまいます。


8月18日、北条政子は、伊豆山権現の尼・法音に読経の代行してもらうことを勧めます。

法音は、政子の経の師でした。

頼朝が目録を法音に提出すると、法音は快諾したのだそうです。



伊豆山神社
(熱海)

伊豆山神社は、伊豆山権現・走湯権現とも呼ばれ、伊豆の流人だった頼朝が源氏再興を祈願した社。

若き日の頼朝政子が忍び逢う場所でもあったといいます。



源義朝の墓
(愛知県美浜町・野間大坊)

頼朝の父義朝は、平治の乱後、尾張国野間で家臣の長田忠致の裏切りあい最期を遂げました。

野間大坊には義朝の墓が建てられています。




伊豆山神社

箱根神社

三嶋大社


源頼朝挙兵

山木館襲撃~源頼朝の挙兵~







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2024年8月17日土曜日

三嶋大社の祭礼の日に挙兵した源頼朝




源頼朝が挙兵の日に選んだのは、源氏再興を祈願していた三嶋大社の祭礼の日でした。


1180年(治承4年)8月17日の晩、頼朝山木館を攻めさせます。

加藤景廉佐々木盛綱は、留守番として頼朝の傍らにいました。

まず、佐々木定綱経高高綱の三人が、山木兼隆の後見役堤権守信遠を討ちます。

このとき、経高の放った鏑矢が、平氏を征伐するための最初の矢でした。

その後、佐々木兄弟は、山木兼隆襲撃の軍に加わります。

頼朝は、「戦が始まったら火をつけるように」と命じていましたが・・・、

その火がなかなか見えないので、留守の加藤景廉佐々木盛綱堀親家らを山木館へ向かわせました。

景廉には、長刀を与え、「兼隆の首を討って持参すべし」と命じています。

そして、盛綱景廉は、兼隆の屋敷内に入り、見事に兼隆を討ち取ります。

兵達が帰ってきたのは、18日の明け方でした。






三嶋大祭りは、三嶋大社の祭礼にあわせて開催される三島市最大のイベント。

期間は8月15日・16日・17日。

中日には「頼朝公旗挙げ行列」が行われています。







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山木館襲撃~源頼朝の挙兵~


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