別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


ラベル 源頼朝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2025年7月14日月曜日

梶原景時の霊を弔うための施餓鬼会 7月15日 ~鎌倉:建長寺~




ある年の建長寺での三門施餓鬼会でのこと。

施餓鬼会が終わった後、梶原景時の亡霊が現れます。

亡霊は施餓鬼会が終わっていたので残念そうに引き上げていったそうです。

しかし、蘭渓道隆が呼び戻し、再び施餓鬼会を行ってあげると、感謝して消えていったのだといいます。

建長寺では、今でも景時の霊を供養するための施餓鬼会を行っています。


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梶原景時は、1180年(治承4年)に源頼朝挙兵したときは平家方に付いていましたが・・・。

『吾妻鏡』によると、石橋山の戦いに敗れ、山中に逃れた源頼朝の居場所を知っていながら、それを見逃したのだといいます。


しとどの窟
(湯河原町)

湯河原町のしとどの窟は、石橋山で敗れた頼朝が隠れ潜んだ所と伝えられています。


その後、景時頼朝の御前に参り、御家人として名を連ねることとなります。

頼朝の信任が厚かった武将でしたが、1199年(建久10年)に頼朝が亡くなると、間もなく、御家人66名からの弾劾を受けてしまいます。

翌年には鎌倉を追放され、駿河国で最期を遂げました(梶原景時の変)。




(寒川町)

鎌倉を追放された景時は、一族とともに一宮館に退きます。

そして、上洛しようと一宮を発ったのですが・・・


(静岡市梶原山)

駿河国清見関で在地武士と合戦となり、一族ととともに討死しました。

梶原山の碑に刻まれている「鎌倉本體の武士 梶原景時終焉之地」は、建長寺管長の筆。


梶原景時の墓
(鎌倉)

深沢小学校裏のやぐら内にある四基の五輪塔は、景時一族の墓と伝えられています。





三門梶原施餓鬼会は7月15日。

午前8時、国宝の梵鐘が撞かれ施餓鬼会が始まります。





三門梶原施餓鬼会


梶原景時

梶原景時の変


建長寺









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夏休み鎌倉計画!
夏だ!休みだ!鎌倉だ!

夏休み江の島計画!
夏の江ノ島



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2025年7月4日金曜日

真鶴 貴船まつり2025~海上渡御が復活する源頼朝ゆかりの地の夏祭~




貴船まつり貴船神社の祭礼。

宮城県・鹽竈神社の「塩竈みなと祭」、広島県・厳島神社の「管絃祭」とともに「日本三船祭」の一つで、国の無形民俗文化財に指定されています。





今年は花飾りをまとった小早船や神輿船が海上を渡る「海上渡御」が8年ぶりに復活します。







貴船祭


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貴船神社

貴船神社は、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵をした源頼朝が必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられる社。

参道石段には頼朝が休憩したという腰掛石が奉納されています。


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2025年3月、源頼朝が船出した岩海岸では源頼朝旗挙祭が開催され、28年ぶりに源頼朝旗挙鍋が復活しました。



貴船祭



歴史めぐり源頼朝








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湯河原・真鶴の源頼朝伝説


源頼朝挙兵


石橋山の戦い


熱海と源頼朝の伝説


源頼朝旗挙鍋



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2025年6月30日月曜日

源頼朝が一目置いた平重衡の供養塔~木津川:安福寺~



平重衡は平清盛の五男。

1180年(治承4年)12月28日の南都焼討東大寺興福寺を焼いてしまった武将。

1183年(寿永2年)2月7日、一ノ谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られてきますが、重衡の態度に感心した源頼朝は、工藤祐経に接待を命じ、侍女の千手前を仕えさせて重衡を客として厚遇したそうです。

鎌倉の教恩寺阿弥陀如来像は、頼朝が重衡に与えたものと伝えられています。

しかし、1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦で平家が滅亡すると、鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、6月23日、木津川で斬首されました。

木津川市の安福寺十三重塔は重衡の供養塔と伝えられています。




安福寺の本尊・阿弥陀如来像は、重衡が最後に拝んだ仏像。





一ノ谷の戦い

南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~








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鎌倉との繋がりを求めて。
奈良・京都

源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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2025年4月14日月曜日

富士山本宮浅間大社~源頼朝・北条義時が崇敬した社~



富士山本宮浅間大社は富士山の噴火を鎮めるために建てられた社。



噴火を鎮めるためには水が必要。

そのため清水の湧く地に遷座されたのではないかといわれています。




富士山本宮浅間大社の祭神「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)は、源頼朝北条義時が崇敬した三嶋大社の祭神「大山祗神」(おおやまつみのかみ)の娘。

源頼朝は、1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に流鏑馬を奉納しています。

北条義時は、1223年(貞応2年)6月20日に「遷宮の儀」を執り行っています。



富士山本宮浅間大社の流鏑馬は、頼朝が奉納したことに始まるのだと伝えられています。

毎年5月4日・5日・6日には流鏑馬まつりが開催され、5日の本祭では小笠原流斎藤支教場の方々による流鏑馬が奉納されています。


桜の馬場

富士山浅間大社の御神木は桜。
流鏑馬は桜の馬場で催されます。


富士山本宮浅間大社


世界文化遺産 富士山


小笠原流流鏑馬








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富士裾野の巻狩り

狩宿の下場ザクラ

曽我兄弟の仇討ち

巻狩りと仇討ち

白糸の滝


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