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5月 1, 2011の投稿を表示しています

長谷寺のフジ

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長谷寺 大黒堂前の藤棚です。 鎌倉のフジ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/kamakura-fuji.htm 長谷寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136hasedera.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

光則寺のシロフジ

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長谷の 光則寺 参道のシロフジです。花房が長く見事なフジです。 鎌倉のフジ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/kamakura-fuji.htm 光則寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136kosokuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

陰陽師安倍晴明の伝説~鎌倉:山ノ内~

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鎌倉の山ノ内には、陰陽師安倍晴明に関する伝説がいくつか残されています。 平安時代の陰陽師が鎌倉を訪れていたということなのでしょうか・・・。 びっこ石(晴明石)   山ノ内の 八雲神社 に置かれた石です。 この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めばびっこになると伝えられてきました。 もとは山ノ内道の十王堂橋付近にあったそうですが、安倍晴明が厄除けのために置いた石だと伝わっています。 北鎌倉駅の近くには「晴明井戸」と呼ばれる井戸もあったそうですが、今もあるのでしょうか・・・。 現在は、 八雲神社 に置かれている 「晴明石」 とともに、大船の 多聞院 が所有していたそうです。 そういえば・・・、 多聞院 は、山ノ内にあった観蓮寺を前身としているということでした。 安倍晴明の碑 山ノ内道のJR横須賀線踏切近くにある 晴明の碑 です。 この碑の辺りに安倍晴明の屋敷があったともいわれています。 建長寺の鎮守神 「第六天社」 にある晴明の碑です。 ~源頼朝の館と安倍晴明~ 1180年(治承4年)、鎌倉に入った 源頼朝 は、大倉の地に館を構えます(参考: 大倉幕府跡 )。 『吾妻鏡』によると、この時に使用されたのが山ノ内にあった首藤兼道邸でした。 この建物には安倍晴明の護符が貼られ、建てられてから200年もの間、一度も火災に遭わなかったといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 晴明神社 (京都)

キリシタンたちの旦那寺~鎌倉:光照寺~

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一遍の法難霊場として知られる山ノ内の 光照寺 は、鎌倉に密かに潜伏していた「キリシタンたちの旦那寺」と呼ばれていたそうです。 光照寺山門 梁の下に「中川久留子(くるす)」と呼ばれる十字架の紋が掲げられているため「くるす門」と呼ばれています。 クルス紋(中川久留子) 光照寺 の山門は、九州豊後国岡藩主の中川氏が建てた東渓院の山門が移されたものです。 東渓院は台にあった臨済宗の寺でしたが明治期に廃寺となりました。 中川氏は、キリシタン大名だったといわれています。 光照寺 本堂には、キリシタンが持ち込んだという燭台も残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 江戸時代には、キリスト教に対する禁教令が出され、キリシタンでないことを証明するための「寺請制度」がありました。 人々はいずれかの寺を菩提寺として、その檀家にならなければなりませんでした。 そして、寺は、幕府の命によって檀家を監視する義務を負わされていました。 しかし・・・、 光照寺 に「キリシタンの燭台」が、 東慶寺 にイエス・キリストの略字を表す「IHS」が刻まれた「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」が残されているように、寺はキリシタンだと知っていてもそれを黙認していたのでしょう。 光照寺 の「燭台」 東慶寺 の「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」 鎌倉にキリシタンが入って来たのは、1590年(天正18年)、 徳川家康 が江戸を開府してから。 江戸浅草近在のキリシタンが 鶴岡八幡宮 の警備のための人足に混ざって鎌倉に移住してきたといわれています。 1623年(元和9年)、浅草から巡回にきていた神父フランシスコ・ガルベスが、懸賞金目当ての漁師に密告され坂ノ下で捕らえられました。 その後、小袋谷にあったキリシタン伝道所のヒラリオ孫左衛門夫妻らとともに、江戸小伝馬町の牢に入れられ処刑されています。 現在、鎌倉には多くのキリスト教会がありますが、鎌倉は、面積当たりのキリスト教系の施設が長崎に次いで多い場所といわれています。 光照寺

長尾定景一族の墓~鎌倉:久成寺~

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鎌倉植木の 久成寺 にある長尾定景一族の墓です。 横浜市戸塚区の長尾台の「陣屋場跡」から移されたそうです。 ~長尾定景とは・・・~ 長尾定景は、鎌倉権五郎景政を祖とする平氏で、 長尾城 (横浜市戸塚区)を拠点としていました 源頼朝 が挙兵をした1180年(治承4年)、定景は平氏方の 大庭景親 に付き、 石橋山の合戦 では、 岡崎義実 の子 佐奈田与一義忠 を俣野五郎とともに討ち取っています。 頼朝が鎌倉に入ると捕らえられ 岡崎義実 に預けられていましたが、許されて 三浦氏 に仕えていたと考えられています。 のちに定景は、1219年(承久元年)1月27日、 源実朝 を暗殺し 三浦義村 邸に向かおうとしていた公暁を討ち取ったとも伝えられています(参考: 源実朝の暗殺 )。 1247年(宝治元年)の 宝治合戦 では、定景の子景茂が 三浦泰村 方に付き、長尾氏は滅亡しました。 上杉憲政から関東管領職を譲られた上杉謙信(長尾景虎)は、 定景の子孫だといわれています。 上杉謙信と鶴岡八幡宮 ~久成寺のツツジ~ 久成寺 https://www.yoritomo-japan.com/page140kujyoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

松平甚之助新兵衛内室の墓~鎌倉:久成寺~

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北条氏勝によって 玉縄城 が開城された後、徳川家康は玉縄領を松平甚右衛門正次に治めさせます。正次は、のちに玉縄城主となる松平正綱の養父にあたります。 妙秋院日種とその一族のための供養塔 妙秋院日種は、 駿河大納言忠長に仕えていた正次の子甚之助新兵衛の内室です。 久成寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page140kujyoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

妙法寺の苔の石段とシャガ

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「苔の寺」として知られる大町の 妙法寺 。苔の緑と白い シャガ が似合います。 鎌倉のシャガ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/shaga.htm 妙法寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page126myohoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

ぶっけり仏~玉縄城主三代の墓:龍寳寺~

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龍寳寺 の裏山には「ぶっけり仏」と呼ばれている石塔があります。 ぶっけり仏~玉縄城主の墓~ 玉縄城主の二代北条綱成(中央)、三代氏繁(右)、四代氏勝(左)の墓です。 この石塔は、村人が通りかかるといつも倒れていたそうです。 直しておくのですが、いつのまにかまた倒れているので、 「ぶっけり仏」と呼ばれるようになったと伝わっています。 ~黄八幡と呼ばれた二代綱成~ 龍寳寺 開基の北条綱成は、福島正成という今川家の家臣でしたが、北条氏康(早雲の長男)の養子となり、 玉縄城 を与えられ二代目の城主となりました。 黄色の練絹に「八幡大菩薩」と書かれた旗を背に挿していたので「黄八幡」と呼ばれ畏敬されていました。 ~上杉謙信を退けた三代氏繁~ 1561年(永禄4年)、上杉謙信によって 玉縄城 が包囲されますが、綱成の子氏繁(三代玉縄城主)は、よく守り抜きこれを退かせました。 ~玉縄城を開城した四代氏勝~ 氏繁の子氏勝(四代玉縄城主)のときに豊臣秀吉の小田原攻めが行われます。 玉縄城 の攻略は徳川家康によって行われましたが、家康は、開城を氏勝を説得するよう本多忠勝に命じたといいます。 忠勝は家臣を通じて 龍寳寺 の良達和尚に氏勝の説得を頼みます。 良達和尚が 大長寺 の源誉上人とともに氏勝を説得したことにより玉縄城は無血開城となりました(1590年(天正18年))。 1512年(永正9年)、北条早雲が築城して以来、難攻不落を誇った 玉縄城 も1590年(天正18年)開城され、1619年(元和5年)に廃城となりその歴史を終えました。 龍寳寺