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9月 15, 2013の投稿を表示しています

特別展 「東大寺-鎌倉再建と華厳興隆-」 ・・・金沢文庫

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1180年(治承4年)、 東大寺 は平重衡の南都焼討によって伽藍のほとんどが焼け落ちました。 その再建の責任者に任命されたのは俊乗坊重源。 俊乗坊重源 そして、重源を支援したのが後白河法皇と 源頼朝 。 ★南都焼討と東大寺の再興~重源と源頼朝~ 焼討の翌年から 大仏 の鋳造が開始され、1185年(元暦2年)8月には開眼供養が行われました。 東大寺の大仏 次に手掛けられたのは 大仏殿 。 1195年(建久6年)3月、 源頼朝 は上洛し 大仏殿 の落慶供養に参列しています。 東大寺大仏殿 以後、鎌倉と 東大寺 の関係は深まり、重源の後継者には、鎌倉 寿福寺 や京都 建仁寺 を開いた 栄西 が任じられ、三代には 栄西 の弟子で 鶴岡八幡宮 の供僧だった 行勇 が任じられています。 東大寺南大門 重源は 南大門 も再建しています。 南大門 は、 運慶 らが彫った金剛力士像を安置し、1203年(建仁3年)に竣工しています。 運慶 特別展 「東大寺-鎌倉再建と華厳興隆-」は、平成25年10月11日(金)~12月1日(日)の間に開催されます。 詳しくは・・・ 神奈川県立金沢文庫のページ で。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東大寺

鎌倉:長谷寺からの海2013/09/21

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今の季節、 長谷寺 からの景色は最高です。 見晴台からの景色 海の向こうには材木座の 光明寺 が見えます。 沖にはヨットが。 お地蔵さまと海 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 長谷寺

鎌倉:ヒガンバナ・・・東慶寺・長寿寺・鶴岡八幡宮・長谷寺2013/09/21

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東慶寺 長寿寺 鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 の 神苑ぼたん庭園 の裏側の路地に咲くヒガンバナ。 全体的に見頃となるのはあと数日かかるかもしれませんが、一部ではご覧のとおり。 長谷寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉のヒガンバナ

鎌倉:浄光明寺のハギとヒガンバナ2013/09/19

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浄光明寺 の ハギ が見頃です。 ヒガンバナ も咲き始めています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉のハギ 鎌倉のヒガンバナ

鎌倉:宝戒寺のハギとヒガンバナ2013/09/19

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白ハギ で知られ「萩の寺」と呼ばれる 宝戒寺 。 見頃を迎えました。 ヒガンバナ も咲いています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉のハギ 鎌倉のヒガンバナ

大庭御厨を伊勢神宮に寄進した鎌倉権五郎景政

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『吾妻鏡』によると、 鎌倉権五郎景政 は、1117年(永久5年)10月23日、自らの領地である相摸国 大庭御厨 を伊勢神宮の寄進しています。 景政 が開発した 大庭御厨 は、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にいたる広大な荘園。 八幡太郎義家と景政 (腰越天王祭の人形山車の人形) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~寄進地系荘園~ 当時の地方の国は、受領国司と呼ばれる年貢徴収などの強大な権限を持った役人が支配し、私腹を肥やすという時代でした。 もちろん、新たに開発された農地にも税金がかけられます。 景政 が行った伊勢神宮への寄進は、租税免除を目的とするもの。 受領国司の横暴から逃れることも目的としています。 当時、 景政 のような開発領主は、有力な貴族や寺社に農地を寄進することで、それまで国司に納めていた官物・雑役を年貢・公事の名目で貴族や寺社に納めることで国司の圧迫を逃れようとしていました。 「寄進した」というと「あげてしまった」という感じもしますがそうではありません。 貴族や寺社は寄進を受けたといっても、その農地を支配するのではなく、経営は開発領主に任せられていました。 つまり、開発領主が利益を得るために名目的に寄進するということのようです。 のちに 大庭御厨 を領した 大庭氏 は 景政 の孫景忠が祖といいます。 そして、1180年(治承4年)の 源頼朝 の 挙兵 に敵対した 大庭景親 は、景忠の子といわれていますが、これらの系図には諸説あって定かではありません。 御霊神社例祭 鎌倉坂ノ下の 御霊神社 は、 鎌倉権五郎景政 を祭神としています。 鎌倉権五郎景政 の命日にあたる9月18日に 例祭 が行われ、神奈川県の無形民俗文化財となっている 面掛行列 を見ることができます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆