源義経が左衛門尉に。頼朝の対応は?
『吾妻鏡』によると・・・ ~源頼朝が3ヵ国の知行国主となる~ 1184年(元暦元年)6月20日、朝廷からの辞令が鎌倉に到着します。 源頼朝 は、武蔵国・駿河国・三河国の知行国主となり、武蔵守には源(大内)義信、駿河守には源(伏見)広綱、三河守には 源範頼 が任命されています。 頼朝 は、この人事について、予め高階泰経に書状を送って、この3ヵ国の知行国主となることを要請していました。 同時に、 頼朝 を助けてくれた 池禅尼 の子平頼盛とその子の解官の解除も要請していました。 その結果、頼盛は権大納言、その子光盛は侍従に、保業は河内守に任じられています。 (参考: 平清盛と源頼朝 ) また、この年、平頼盛とともに 頼朝 を訪れていた一条能保が讃岐守に任じられています。能保は 頼朝 の同母妹の坊門姫を妻としていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源義経、国司になることは許されず~ しかし、ここに 源義経 の名がありません。 木曽義仲の追討 ・ 一ノ谷の戦い で大活躍した 義経 でしたが・・・ 頼朝 の推薦からは除かれてしまいました。 『吾妻鏡』6月20日条には、「義経は官位の推挙を望んでいたが、頼朝はあえてそれを許さなかった」と記されています。 また、8月17日条には、「内々に疑義を申し出た者があった」ことが記されています。 しかし、その理由は定かではないようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~義経、平家追討からも外される~ 7月3日、 頼朝 は平家追討のため、 義経 を西海に派遣することを 後白河法皇 に申し出ています。 頼朝 も、 義経 の武の能力は認めていたようです。 しかし、 義経 は平家追討軍から外されることになります。 8月6日、 義経 が 頼朝 の許可なく「左衛門尉」に任ぜられたことで、 義経 を平家追討の将軍とすることを見合わせることとなったのです。 義経 は鎌倉に使者を遣わし、 「自分が望んで受けたわけではなく、度々の勲功に対して朝恩として与えられたものであるので、辞退することはできなかった」 と弁明しています。 しかし、これに 頼朝 は機嫌を損ね、「自ら希望したのではないか」という疑いを持ったといいます。 結局 義経 は、翌年2月の 屋島の戦い ま